住所変更届

市役所の窓口が閉まるまで十分。高瀬洋平は転出届に、長崎の新住所を書いていた。造船所への転勤で、来週から海の見える社員住宅に住む。

赤羽知佳が、朱肉のついた印鑑ケースを持って隣へ座った。

「これ、洋平の」

「今は印鑑いらないらしい」

「そうなんだ」

ケースは新生活を始めた日に二人で買った。中に一本だけ入れるつもりが、知佳の認印も並ぶようになった。住所は別でも、郵便物も食事も、ほとんど同じ部屋にあった。ケースの蓋には、知佳が最初の住所を間違えて書いた修正テープの跡がある。洋平は『次に引っ越すときも使える』と笑い、買い直さなかった。

「鍵も返す」

知佳がケースの下から合鍵を出した。

一か月前、洋平は「仕事を辞めなくていい」と言った。知佳には「長崎へ来なくていい」と聞こえた。洋平は、彼女が仕事を続けたまま遠距離を選ぶのだと思った。それ以来、どちらも続きを尋ねなかった。洋平は長崎の物件を一人で選び、知佳は東京の更新料を払った。互いに相手を自由にしたつもりで、相手から選択肢を奪っていた。

「向こうの部屋、広い?」

「一人なら」

「そう」

窓口番号が呼ばれるまで、あと五人。

「長崎の出版社、受けたんだ」知佳が言った。

「どうして黙ってた」

「落ちたら、また期待させるから」

「結果は」

「今日中。でも、もう住所書いたんだね」

洋平は転出届を見た。世帯主欄には自分の名だけ。知佳は鍵を印鑑ケースへ戻さず、机の上に置いた。金属の頭には、洋平が青、知佳が赤で塗った小さな線が交差している。二本を見分けるためではなく、同じ家の鍵だと分かるための印だった。

十六時五十九分、洋平の番号が呼ばれた。彼は書類を提出する。受付印が押され、長崎市への転出が確定した。

一分後、知佳の携帯が震えた。出版社からの採用通知だった。勤務地は長崎。入社日は洋平と同じ四月一日。

二人は画面と、受付済みの書類を交互に見た。

「一人なら広いんだよね」

「二人だと、少し狭い」

「狭いのは嫌?」

「今の部屋よりは広い」

窓口のシャッターが下り始める。住所変更の訂正は明日以降だ。

知佳は机の合鍵を取り、印鑑ケースへ戻した。二本の印鑑が触れて鳴る。洋平は控えの世帯主欄の横へ、鉛筆で彼女の名前を書き足した。