保留箱の母子手帳
市役所の子育て支援窓口で、鴻上志乃は保留箱から一冊の母子手帳を取り出した。
翌日から産休に入る小杉睦花が、最後に引き継いだ産後支援の申請だった。出産予定日は三日後。申請者は夫と別居中で、退院後に頼れる人がいない。訪問支援を受けるには今日中の決定が必要だった。
画面には〈配偶者所得未入力〉と赤く表示され、申請は進まない。睦花のメモには〈離婚成立後に再申請〉とある。
志乃は制度要綱を開いた。別居や暴力などで所得確認が困難な場合、市が個別判断できる条項がある。申請者の相談記録には、連絡先を相手へ知らせないよう求める記載もあった。
係長は「例外は時間がかかる。今は保留で」と言った。志乃は母子手帳を箱へ戻さず、支援員へ電話した。本人確認を別経路で行い、所得欄を空白のまま決裁できる書式に切り替える。若い窓口職員には「赤い表示を消すために、本人へ相手の情報を取りに行かせないで」と伝えた。
支援員から届いた確認書には、退院日に自宅の鍵を開ける人もいない、と書かれていた。志乃は例外決裁の欄を埋めながら、空白の配偶者欄より、今そこにない助けを数えるべきだと思った。係長にも条文番号を示し、個人判断ではなく制度に基づく決定として印を求め、次の担当者が同じ条文へたどり着ける記録も残した。
決定通知は閉庁五分前に出た。申請者へ電話すると、長い沈黙の後、「退院しても来てもらえるんですね」と声が返った。
睦花は机の引き出しから、例外案件だけをまとめた私的なメモ帳を出した。
「要綱の場所、分かりにくいから。私も何度か箱から拾った」
係長は志乃へ、睦花の通常窓口六十件と例外相談をまとめて持つよう言った。どちらも同じ〈事務〉として数えられる。
志乃はメモ帳を受け取らず、例外条項へのリンクを申請画面に追加する改修依頼を出した。そして、相談判断を専門にする福祉職への内部選考ページを開く。
今日の決定書を実績欄へ添え、受験申込を送信した。