傘を一本だけ
帰る時刻になって雨が降り出した。
母は玄関の傘立てから、えんじ色の長傘を抜いた。
「これ持っていきなさい。次に帰るとき返せばいいから」
奏恵は鞄から折り畳み傘を出した。「あるよ」
「そんな小さいの、駅までに濡れるでしょう」
父も靴紐を結びながら言う。「持っていけ。返しに来る理由になる」
えんじ色の傘は、帰省のたびに手渡された。夏は日傘、冬は毛布、春は保存容器。返すものがあれば、次の日を決めやすい。母はいつもそう言い、奏恵も断るより楽だから受け取っていた。
「理由は借りない」
母が傘を差し出したまま止まる。
「何、その言い方」
「会いたいと思ったら来る。返すものがあるからじゃなくて」
「親に会うのに、いちいち会いたいか考えるの?」
「考えるよ。考えないで来ると、ずっと苦しくなるから」
父がため息をついた。「最近の子は何でも境界線だな」
「そうかも。線があるほうが、踏まれたって怒らなくて済む」
玄関の外で雨粒が跳ねている。母は傘の石突きを床につけ、視線を落とした。
「じゃあ、次はいつ会いたくなるの」
「まだ分からない。来月、電話する」
「日を決めていかないの?」
「決めない」
奏恵は折り畳み傘を開いた。骨が一本、少し曲がっている。母はそれを見て、えんじ色の傘をもう一度持ち上げかけたが、やめた。
代わりに、玄関台にあった小さな包みを渡す。
「おにぎり。これは返さなくていい」
奏恵は受け取った。「ありがとう」
母は傘立ての奥へ長傘を差し込み、『来月の電話は、夜でいい?』と聞いた。奏恵は『日にちは私から送る』と答える。父は不満そうに口を開いたが、母が先に『分かった』と言った。次の帰省日は決まらなかった。それでも、決めないことを伝える会話は途中で切られなかった。雨音だけが続いた。
えんじ色の傘は傘立てへ戻された。
門を出ると、折り畳み傘の端から肩に雨が落ちた。少し濡れたが、自分で選んだ濡れ方だった。手には、返却日を持たない温かい包みだけが残った。