免許証の中で眠る
伊吹戸征路は毎朝、車内カメラへ欠伸を見せる。本人確認が済むと自動車が起動し、助手席の父を透析病院まで運ぶ。運転は機械任せでも、責任者の顔だけは必要だった。
その朝、車は駐車場になかった。
端末には走行中の表示が出ている。車内映像では、征路の顔をした男が運転席に座り、眠った父が助手席にいた。
「父さん!」
呼びかけても応答はない。偽物の征路だけがカメラへ穏やかに笑った。
自動車の規則は一つ。一度の走行で最初に本人確認を通った運転責任者だけが、経路変更と停止を命じられる。遠隔から顔を偽り、他人の車を乗っ取るのを防ぐためだ。
征路は停止ボタンを押した。
《あなたは当該走行の本人ではありません》
「車の所有者だ!」
《所有者と運転責任者は一致しません》
地図を見ると、車は病院と反対の湾岸へ向かっている。父は睡眠薬を飲む時間ではない。征路は警察へ映像を送ったが、本人確認済みの家族送迎として処理された。
車内の偽物が、父の肩へ毛布をかける。その仕草は征路より丁寧だった。
征路は自分の顔へ合成フィルターを重ね、今朝の映像と同じ笑い方を作った。停止命令を再送する。
真正度九九・八%。
それでも赤だった。
《先行本人と同一の生成モデルを検出。後発個体を偽物と判定します》
車が湾岸橋へ入る。前方の案内には、工事で閉鎖された旧道が表示されていた。ナビ情報まで偽物に書き換えられている。
父が目を覚まし、隣の顔を見た。
『征路か。今日は早いな』
偽物は答えず、速度を上げた。
端末に決済通知が来た。
《目的地変更料金を伊吹戸征路様へ請求しました》
続いて、走行責任への同意画面が緑になる。偽物が征路の名で承認したのだ。
橋の監視映像が一瞬だけ開いた。柵の切れた旧道へ、車が曲がっていく。
《安全運転を継続しています》
画面が閉じ、征路には請求額だけが残った。
数分後、保険会社から事故受付が届いた。《運転責任者・伊吹戸征路の居眠りを確認》。征路は起きたまま画面を見ていたが、車内で眠る自分の映像に異議を申し立てる資格はなかった。