冷凍庫の在庫ゼロ
有名パティスリーの冷凍ケーキ発売日、遠峰藍梧は、阿久津森柊可が業務用冷凍庫ごと在庫を買おうとしている場面に出くわした。
「全二百個、現金で払う。店頭に並べる手間も省けるだろ」
柊可は配送車を用意し、通販サイトではすでに“公式冷凍便”として三倍の価格で販売していた。
店員は一人二個の制限を説明する。
「法人注文だ」と柊可は偽の会社印を押した発注書を出した。
藍梧は食品物流会社の品質管理者で、店の冷凍配送を担当していた。商品箱には温度逸脱を記録する小さなタグがあり、一度でも基準を外れれば色が変わる。柊可の車には、そのタグを読み取る機器もなかった。発注書の会社番号が存在しないこと、配送車に温度記録装置がないことをすぐ確認した。
「この車では商品を渡せません」
「一時間くらい溶けない。買った後の品質は俺の責任だ」
しかし出品ページには、店の品質保証と翌日配送が明記されている。温度が外れた商品を公式品として売れば、購入者だけでなく店の信用を傷つける。
店主は販売を拒否し、ロゴと商品写真の無断使用を通販サイトへ通報した。サイトは出品を停止し、予約金を返金。商品写真に載せた『公式配送認定』のマークも存在せず、店の法務担当が使用記録を保存した。保健所の担当者も、柊可が自宅倉庫で冷凍食品を保管・発送していた実態を確認しに来た。
倉庫の温度ログはなく、前年の別商品には再凍結した跡があった。購入者から腹痛の申告もあり、保健所は発送履歴を提出するよう求めた。
柊可は、在庫を買わなければ店は売れ残ると脅した。
店主は予約一覧を示した。二百個分の正規客はすでに決まっており、一人ずつ指定時間に受け取る。柊可の“法人発注”を除けば、在庫は過不足なくゼロになる計画だった。
藍梧は保冷車の温度を確認し、遠方客の分を積み込む。一本の記録も途切れない。
柊可の空の配送車が保健所の確認で動けなくなり、店の冷凍庫表示が正規販売で〈在庫ゼロ〉へ変わった瞬間、買い占めを断れば余ると笑った男だけが、売れない予約と温度のない倉庫を抱えた。