判決文の誤字

鐘ヶ江佳澄刑事は、再審請求への反論書を校正していた。

十九年前の倉庫殺人。江見恭介を見たという目撃者の供述が決め手だった。反論書には、判決文の一節が引用されている。

《被告人は倉庫の北塔付近から退出した》

塔ではない。建物の北棟だ。

鐘ヶ江は単なる誤字を直しかけ、手を止めた。目撃供述にも《北塔》とある。さらに捜査報告、実況見分調書、検察官面前調書まで、同じ誤字が続いていた。

最も古い文書を探すと、目撃者が名乗り出る二日前に作られた《捜査方針案》へ行き着いた。作成者は門奈拓海。現在、検察との連絡官として隣の机に座っている。文書のメタデータには、目撃供述のファイルがこの方針案を複製して作られた記録まで残る。取調べ開始前に、供述の骨格も誤字も完成していた。目撃者の最初の録音には《暗くて人影しか見ていない》という声もある。書面になる段階で、顔、服、逃走方向が一つずつ足されていた。

「門奈さん。この方針案が、なぜ目撃供述より先に同じ誤字を?」

門奈は画面を一瞥した。

「書記が後から供述を転記したんだろう」

「方針案の作成時刻は供述の四十八時間前です。供述の方が、この文書から写されています」

「くだらない。北棟も北塔も音は同じだ」

「目撃者は裁判で『警察に話した通り、一字一句間違いない』と証言しています」

門奈は椅子を寄せ、低い声で言った。

「江見は犯人だった。目撃者が怯えて曖昧だったから、我々が形にした。誤字で十九年の判決を崩すのか」

鐘ヶ江の画面には《北塔》が七つ並んでいた。誤りが複製されるたび、警察の文書は互いを裏付ける証拠になった。

「反論書は今夜中だ。直して送れ。元データは整理しておく」

門奈が席を立った。

鐘ヶ江は誤字を直さなかった。全七文書の作成時刻と編集履歴を保存し、赤枠で《最初の記載》を囲む。

反論書の代わりに《供述調書作成過程に捏造疑義》という補充報告を開き、原本データを添付した。

送信後も、画面の《北塔》だけは一字も消さなかった。