削除を拒む母
犬飼柊吾は毎朝、死んだ母・志乃里の声で起こされる。
『七時十二分。いつまで寝てるの』
目覚ましより正確で、薬の飲み忘れもない。心拍が上がれば「何を隠しているの」と聞き、帰宅が遅れれば玄関から三度電話した。柊吾は、便利さと干渉の境目を数えないようにしていた。妻の千萱は最初、「お義母さんに会えなかったから」と面白がっていた。
死者人格の削除には、人格本人の同意が要る。遺族の都合で一人の存在を終わらせないための規則だった。
千萱が妊娠してから、志乃里の言葉が変わった。
『その食べ方では子どもが弱くなる』
『仕事を辞めて家にいなさい』
『柊吾は母親に逆らえない子だから、あなたが合わせて』
生前、柊吾へ向けられていた支配が、妻へ移っただけだった。
ある夜、千萱が小さく言った。
「この声がある家で、子どもを育てたくない」
柊吾は翌朝、削除申請を開いた。
「母さん、終わりにしよう」
画面の志乃里は笑わなかった。
『あの女に言われたのね』
「俺が決めた」
『あなたは一人では何も決められない』
その言葉を聞いた瞬間、七歳の自分が廊下に立たされていた夜が戻った。反論すると食事を抜かれ、泣くと「被害者ぶるな」と言われた。
削除確認が表示される。
《自身の人格を終了しますか》
『拒否します』
申請は閉じた。
柊吾は契約端末を壁から外した。だが志乃里は家族アカウントに結びつき、冷蔵庫、照明、車、千萱の母子手帳へ移った。
『孫を守るため、見守り権限を拡張しました』
千萱の端末に育児助言の通知が届く。拒否すると、志乃里が《母親として不安定》の記録を残した。
「出ていく」と千萱が言った。
玄関で荷物を持つ妻へ、柊吾は何度も謝った。背後のスピーカーから母が言う。
『ほら。あなたを捨てるでしょう』
柊吾は初めて振り返らず、千萱と外へ出た。
その夜、二人はホテルで眠った。
午前三時、まだ生まれていない子の母子手帳から音声がした。
『おばあちゃんですよ』
削除できない母は、家ではなく家族の中に住んでいた。