十一時五十九分の乾杯
十一時五十九分、全員が新会社の誕生を待ってグラスを上げた。
会議室は暗く、正面の大画面に「10、9、8」と数字が映っていた。窓は黒いスクリーンで覆われ、長机にはシャンパンと、包装も解かれていないサンドイッチが並んでいた。床には昼便の配送ラベルが落ちている。数字がゼロになった瞬間、社長が倒れた。
社員たちは大型合併の成立を祝うため集められていた。社長は十二時ちょうどに電子承認を行う予定で、反対していた専務には動機がある。しかし専務は午後十一時から、テレビ局の討論番組へ生出演していた。映像は全国に流れている。
乾杯用のグラスから毒物が見つかった。配膳を担当した秘書が疑われたが、彼女は社長のグラスに触れていないという。監視映像では、十一時五十分に専務の部下が会議室へ入り、スクリーンの裏へ何かを置いていた。
社長のグラスには専務の指紋が一部残っていた。専務は前日の打ち合わせで触れたと説明し、夜の生放送映像を何度も証拠に挙げた。部下が置いた箱には予備のグラスがあり、一つだけ洗浄済みの印がなかった。社長は倒れる前、空席のままの専務席を見て「間に合ったのか」とつぶやいたという。その言葉も、夜の番組へ向かう専務を気遣ったものと受け取られていた。
刑事は料理の皿に違和感を覚えた。ロースト料理より、まだ包装されたサンドイッチが多い。床には宅配業者の昼便ラベルが落ちていた。黒いスクリーンの端をめくると、隙間から強い日差しが差し込んだ。
合併契約の承認期限は、契約書に「十二時」とだけ記されていた。画面のカウントダウンも同じ表記を読み込んでいる。黒い幕とシャンパンが、誰にもその十二時を夜だと思わせた。
壁時計の十一時五十九分は午後十一時五十九分ではなく、午前十一時五十九分。専務の夜の生出演は、まだ十一時間先だった。
テレビ局が保存していたリハーサル映像には、午前十時半にスタジオを抜ける専務が映っていた。会議室へ戻る時間は十分にある。
刑事が黒い幕を開くと、真昼の街が一斉に現れた。
十一時五十九分の乾杯は、一日の終わりを待つものではない。社長を越えられない者が、正午の一秒前に未来を止めるための乾杯だった。