十歳の敬礼
十歳の少年は、「父は一人で屋上へ上がった」と証言した。
父親は県警の会計係で、公金流用を告発する直前に転落死した。自殺とされたまま十九年。少年は警察官になり、いま巡査部長の宇垣原信として、再捜査班の聴取室に座っていた。
担当の常盤木棗は、古い児童聴取映像を止めた。
画面の少年は、質問されるたび、右手を膝へ三回押しつけている。現在の宇垣原も、同じ動作をしていた。
「その合図は何です」
「癖です」
「映像の外に誰がいたんですか」
宇垣原は答えない。棗は録音状態を示す赤灯を消した。実際には予備記録が継続する二重方式だが、嘘を引き出すためではない。彼が自分の言葉を選べるようにするためだった。
「当時の署長です」と宇垣原が言った。「今の警察庁次長。右手を三回叩けば、教えた通り答えた印だと」
屋上へ上がったのは父親一人ではない。次長を含む三人が同行し、帳簿を渡すよう迫った。少年は非常階段の隙間から見ていた。
「突き落としたのは」
「分かりません。揉み合いになって、父が落ちた。俺は誰の手だったか見ていない」
「それでも証言を変えさせた」
「母に、事故補償を出さないと言ったんです」
宇垣原が警察官になったのは、父を殺した者を捕まえるためではなかった。内部から記録を探したが、次長の監視下に置かれ、やがて自分も部下へ沈黙を教える立場になったという。
「今回も、俺を偽証で処分して終わらせるつもりです。次長へ届かない」
棗の上司も、聴取結論を「現職警官による過去の虚偽証言」とまとめるよう命じていた。宇垣原一人を悪者にすれば、組織は少年へ圧力をかけた事実を隠せる。
赤灯が消えていることに気づき、宇垣原は苦く笑った。
「やっぱり記録していないんですね」
棗は机の下から予備記録媒体を出した。
「あなたを騙したのではありません。上の回線から切っただけです」
彼女は少年の映像と今の供述を連結し、聴取対象を宇垣原から当時の三人へ変更した。次長の職員番号を先頭に入力する。
宇垣原が、十九年ぶりに右手を開く。
棗はその手が震えている映像ごと、検察の特別受理窓口へ送信した。