午前二時の拍手

夜勤看護師の印南千絵に、五年後の院内行事通知が届いた。

〈午前二時 東病棟廊下にて拍手〉

理由の欄は空白だった。

東病棟は終末期の患者が多く、午前二時に祝うことなどない。千絵は、誰かが奇跡的に退院するのだと思った。

それから彼女は、患者の小さな変化を見逃さなくなった。自力で水を飲めた人、窓辺まで歩けた人、三日ぶりに冗談を言った人。そのたび同僚へ「拍手の候補かも」と言った。病棟には、回復とは呼べない出来事にも手をたたく習慣ができた。

ある患者は、疎遠な息子へ電話をかけられた日に拍手を受けた。別の夜、食欲を失った老女がプリンを一口だけ食べた。千絵が小さく手をたたくと、老女は『子ども扱いしないで』と怒り、それからもう一口食べた。病棟では拍手の前に、本人へ祝ってよいか尋ねる決まりができた。喜び方にも、その人の意思があると千絵は知った。別の患者は、最後まで自分で口紅を引いた日に笑って頭を下げた。亡くなる夜にも、家族がそろったことを祝う拍手があった。

五年の間に、多くの患者が退院せずに病棟を去った。それでも千絵は、通知が外れたとは思わなかった。

予定の日、東病棟は改修のため閉鎖されていた。千絵は最後の夜勤を終え、午前二時に廊下を一人で歩いた。奇跡の患者はいない。端末だけが〈行事開始〉と震えた。

曲がり角を過ぎると、元同僚と患者の家族たちが並んでいた。千絵がその日で定年退職することを知り、こっそり集まったのだった。

拍手が始まった。

千絵は、自分のための通知だと初めて知った。四十年、患者を見送り続け、自分の人生は病室の外にないと思っていた。拍手の中には、もう会えない人の分まで混じっている気がした。

退職後、千絵は町の小さな劇場で案内係を始めた。初出勤の日、開演ベルを聞いただけで患者の呼出音を探し、思わず胸ポケットへ手をやった。そこに端末がないことを確かめてから、客席の扉を開いた。舞台が終わるたび、客席のいちばん後ろで手をたたく。

誰かが生き切った時間に拍手をすることは、治すこととは違う。それでも人を一人にしない方法だと、彼女は病棟で覚えた。