午前四時の窯

商店街のパン屋では、毎朝四時になると窯が勝手に鳴った。

主人は三年前に亡くなり、娘が店を継いでいる。

窯の点検記録には異常なし。

奇妙なのは、誰も亡くなった主人の名を覚えていないことだった。

娘でさえ「前の店主」としか思えない。

写真には白い帽子だけが浮いている。

窯が鳴る四時になると、娘の手だけが自然に動いた。

粉を量り、湯を温め、窓を少し開ける。

誰に教わったのか分からない手順。

忘れられた職人が使っていた窯は、その人の始業時刻に一度だけ鳴る。

娘は町の古い客へ聞いて回った。

皆、名は知らない。

それでも、

「前の人は、雨の日だけパンを一つ多く焼いた」

「焦げた端を子どもへくれた」

「借金のある客には月末まで待った」

と手つきだけ覚えていた。

娘は父を探しているはずなのに、集まるのは商売の癖ばかりだった。

もっと個人的な記憶がほしかった。

自分をどう思っていたか。

店を継いでほしかったか。

最後に何を言ったか。

窯は四時に鳴るだけで答えない。

ある雪の日、開店前に一人の老人が来た。

白い帽子を見て、

「その結び方、父親と同じだ」

と言った。

娘は帽子の紐を触った。

自分で結んだつもりだった。

老人は、前の主人が娘のため、毎朝一本だけ小さなパンを焼いていたと話した。

娘は学校へ行く前、店の裏で食べた。

味も顔も思い出せない。

だが窯の奥に、小さな型が残っていた。

娘は同じ形のパンを焼いた。

うまく膨らまず、固い。

一口食べると、突然涙が出た。

記憶ではなく、舌が何かを知っていた。

型を洗いながら、娘は、父が毎朝名前ではなく焼き色で自分の機嫌を見ていたのかもしれないと思った。

確かめる相手はいない。

それでも翌朝から、小さな型を窯の手前へ置いた。

父の名は最後まで戻らなかった。

娘は店の看板へ名前を刻む代わりに、

「午前四時のパン」

という小さな商品を加えた。

毎日一つだけ。

最初の客へ無料で渡す。

窯はそれ以来鳴らなくなった。

始業時刻を娘が自分で覚えたからかもしれない。

人は名前だけで残るのではない。

誰かの手を早朝に動かし、雨の日の一個を増やす癖として、町の中へ生き続けることがある。