午前零時の圏外
塩谷皓は毎晩、眠る前に《デイセーブ》の同期完了を確かめる。その日に生まれた記憶は午前零時までに保存しなければ消える。脳の容量を一日分に限定し、過去は契約サーバーへ置く。それがサービスの規則だった。
皓にとって、充電や歯磨きと同じ習慣だった。恋人の朱音とけんかした日も、仕事で失敗した日も、零時を越えれば整理された過去として呼び出せる。
記念日の週末、二人は山の湖へ行った。圏外になることは知っていたが、宿に通信設備があると聞いていた。朱音は「たまには保存されない顔を見たい」と笑い、皓の端末を鞄の奥へ押し込んだ。
夕方、朱音が遊歩道から滑落した。
皓は斜面を下り、足を骨折した朱音を見つけた。雨が降り始め、道が崩れた。救助へ位置情報を送ろうとしても電波がない。皓は朱音を岩陰へ運び、「宿まで戻って呼んでくる」と約束した。
「場所、忘れないでね」
「忘れるわけないだろ」
時刻は二十三時十二分。宿まで通常なら三十分だった。
泥の道を走り、何度も転んだ。二十三時五十分、ようやく一本だけ電波が立つ。同期と救助要請の二つが画面に並んだ。
デイセーブは動画を含み、完了まで十二分。救助要請を先に送れば間に合うが、零時を越えると、朱音が落ちた場所も、事故が起きたことも忘れる。
皓は救助要請を押し、位置を説明し始めた。通話は途切れ、再接続を繰り返す。
二十三時五十九分、救助側から確認が来た。
〈要救助者との関係を入力してください〉
皓は「恋人」と打った。
午前零時。
画面の文字を見ても、誰のことか分からなくなった。泥だらけの服、血のついた手、発信履歴。何か急いでいた感覚だけが残っている。
救助隊から電話が来た。
『落ちた方の服装は? 正確な位置は?』
皓は山を見上げた。どの道を通ったか思い出せない。
「すみません。間違い電話かもしれません」
通話を切ると、デイセーブの通知が出た。
〈昨日の未同期記憶を破棄しました〉
翌朝、捜索願のニュースに朱音の顔が映った。
皓は知らない女性なのに、画面から目を離せなかった。