右手の小指
野球中継は七回裏で、父の右手の爪だけが伸びていた。
余命を告げられて実家へ帰った宮坂寧々は、テーブルの爪切りを手に取った。
父は居間で野球中継を見ていた。寧々が病院の封筒を持っていても、試合が七回裏なのでテレビから目を離さない。テーブルには爪切りと老眼鏡が置かれ、右手の爪だけが少し長い。左手は昨日自分で切ったらしく、親指だけ斜めだった。
「頼むって朝言っただろ」
父は左手で右の爪を切るのが苦手だ。寧々が通院で実家の近くへ来ると知り、ついでに頼んでいた。
「今じゃなくても」
寧々が言うと、父は「九回までに」と答えた。診察結果を聞く質問ではなかった。
新聞紙を二つ折りにして父の膝へ広げる。寧々は父の隣へ座り、右手を取った。指は太く、爪の間に畑の土が薄く残っている。手を洗ったと言うが、親指の端は黒い。濡れタオルで拭き、爪切りの刃を当てる。
親指から始める。爪切りの向きを変え、角を二回に分ける。硬い爪が、ぱちんと大きな音を立てた。切った欠片が新聞紙の外へ飛び、父が「高かった」と笑う。テレビでは打者がファウルを打った。
人差し指、中指。切るたび父の指がわずかに反るので、付け根を掌で支えた。寧々は深く切りすぎないよう、白い部分を少し残した。父は短く切るのを好むが、端まで取ると割れる。何度言っても自分ではぎりぎりまで切る。
「今日、どうだった」
薬指を切る直前、父が画面を見たまま聞いた。
寧々は爪切りを止めた。病院では「ご家族にも」と言われた。言葉を選んでいるあいだに、投手が次の球を投げた。
「先にこれ」
「うん」
父はそれ以上聞かなかった。右手だけを、寧々の膝の上へ預けている。
テレビでは攻守が替わり、父が一度だけ左手で湯呑みを持った。薬指の爪は端が欠けていた。引っかからないよう二度に分けて切り、やすりを一方向へ動かす。残るのは小指だけ。父は得点が入っても手を引かなかった。
やすりの粉を濡れタオルで拭き、小指へ移る。小指の爪は薄く、刃を強く閉じる必要がない。寧々は丸みに沿って一度だけ切った。白い欠片が新聞紙の中央へ落ちた。