名字で呼ぶのは今日まで

社員証が失効するまで、あと十分だった。

水上絵里は、自分の机から最後の観葉植物を抱えた。今日で会社を辞める。エレベーター前には、城戸佳樹が段ボールを持って待っていた。

「絵里、駅まで運ぶ」

「名字で呼んで」

二人は同じ部署で三年働き、半年前から休日にも会っていた。それでも絵里は、彼を城戸さんと呼び、自分も水上さんと呼ばせた。触れ合うより、名前のほうが近すぎた。休日に映画を見ても、予約名は別々にし、写真を送るときも〈城戸さんへ〉と仕事のような文面を添えた。

前の恋人は、出会って一週間で特別な呼び名をつけた。毎晩名前を囁き、将来まで語ったのに、二か月後には連絡が途絶えた。親しさの速度に置き去りにされてから、絵里は名字を柵にした。名前で呼ばれなければ、急に遠ざかられても、最初から遠かったと思える。佳樹がその柵を越えずに待ってくれるほど、絵里はかえって彼を失う想像をしてしまった。距離を守るほど、気持ちは近づいていた。それでも、名前にするのは怖かった。

エレベーターは点検中で、再開まで七分。警備員が「社員証は十八時に使えなくなります」と告げる。階段を使うには、観葉植物と段ボールが大きすぎた。

「もう同僚じゃなくなるのに、まだ城戸さん?」

「そのほうが分かりやすい」

「何が?」

「距離」

佳樹は段ボールを床へ置いた。

「俺は近づきたいけど、急がせたくない。だから、呼び方は絵里が決めて」

失効まで三分。エレベーターの表示が一階から上がってくる。

絵里はスマートフォンの連絡先を開いた。登録名は〈城戸さん・営業二課〉。会社を辞めれば、営業二課という理由も消える。削除すれば、安全な距離に戻れる。

彼女は部署名を消し、〈佳樹〉と打ち直した。保存してから、画面を彼へ見せる。

「名字で呼んで、じゃなくて、今度は名前で呼んで」

エレベーターの扉が開いた。佳樹は観葉植物を受け取り、初めて急がずに「絵里」と呼んだ。彼女は社員証を返却箱へ入れたが、連絡先は消さなかった。