名札を裏返す

長尾紅葉は、ホームでスマートフォンを向けられている女性に気づいた。女性は駅ナカのカフェの制服を着ており、胸の名札にはフルネームが書かれている。

撮影している男は、「店員の態度を公開する」と言いながら、その名前を何度も読み上げた。昼間、持ち込みの酒を店内で飲むのを断られた客らしい。画面には配信中を示す赤い印があり、流れる文字にも女性の名字が打たれていた。

女性は顔をそむけても、名札だけは隠そうとしない。勤務中に裏返して注意されたばかりで、また処分されるのが怖いという。

「会社の決まりなので」

紅葉が「裏返したほうが」と言うと、女性はそう答えた。

紅葉は企業のコンプライアンス部門で働いている。問題が起きたときほど規則に従い、証拠と記録を残すべきだと考える。女性は、客に本名をさらす規則が守ってくれるとは思えないと言った。

「それでも、今は撮られている記録を残しましょう」

「記録を残したら、会社は私が名札を隠したことを先に責めます」

男が一歩近づいた。紅葉は鞄から駅のレシートを出し、裏の粘着メモを細く裂いた。

「隠すのは私がやります」

女性は止めなかった。紅葉が名札の上へ白い紙を貼ると、男は「逃げるのか」と声を上げた。女性はスマートフォンを出し、撮影画面と時刻を記録する。紅葉は、男の配信画面を直接奪おうとはせず、駅の時計とホーム番号が同じ画面に入る位置から一枚だけ撮った。女性は自分の端末で、公開された名字と視聴者数を保存した。証拠のためにもう一度名前を大きく写すことがないよう、必要な範囲だけ切り取る。紅葉は駅員呼出のボタンを押した。

二人は規則を信じて一緒に動いたのではない。紅葉は手続きを使うため、女性は自分の名前を取り戻すために、同じ駅員室へ向かった。

歩きながら、紅葉は首から下げていた自社の社員証を裏返した。女性がそれを見ても笑わず、自分の名札も紙ごと内側へ返す。

電車の窓には、名前の見えない白い長方形が二つ並んで映った。