否定形の一行
医薬翻訳の納品まで三十分。塩見和花は説明文の一行を二度読み、三度目に原文へ戻った。
〈食事と一緒に服用してください〉
原文には、短い否定語が入っている。正しくは〈食事と一緒に服用しないでください〉だった。食事と同時に飲むと吸収量が大きく変わる薬で、患者向け文書は退院時にそのまま手渡される。否定語一つが、生活の中では服用時刻そのものになる。直前の段落には似た用法の薬が並び、そこでは肯定形が正しい。流し読みほど、同じ文に見える配置だった。
後輩が翻訳メモリから呼び出した文章は、以前の別製品のもの。画面には一致率九十八パーセントと緑色で表示され、違う二パーセントの方が薄く沈んでいた。今回の原文では否定語だけが追加されていたが、差分表示が句読点の変更として薄く処理し、確認画面で見えにくくなっていた。
「私、全部読みました。でも気づけませんでした」
和花は後輩の納品者名を消さなかった。
「一語を見落としたんじゃない。前と同じ文章だと画面に思わせられた」
和花は納品を止め、全文を原文と並べ直した。否定、禁止、数値、頻度だけを抽出する確認欄を作り、該当する文は翻訳メモリの一致率に関係なく二人で読む。ほかの言語版にも同じ一行があるため、担当者へ緊急連絡を送った。
営業は、まず日本語版だけ予定通り出し、訂正版を後送すればいいと言った。納期遅延の記録を避けたいらしい。
「否定語は、あとから足す注釈ではありません」
和花は修正版と遅延理由を正式に提出した。後輩には、謝るメールではなく、差分表示の設定変更を担当してもらった。
納品は二十二分遅れた。先方からは、他言語版も公開前に止められたと返信が来た。遅延欄には和花の名が残ったが、誤訳が患者の手元へ届いた記録は残らなかった。
和花は今月で翻訳会社を離れ、製薬会社の患者向け文書チームへ移る。転職先からは、入社後も夜間の副業翻訳を続けないかと誘われていた。収入は増えるが、いつでも納期に追われる働き方を持ち込みたくなかった。
最後の納品を終え、和花は副業依頼へ〈お受けしません〉と返信した。そのあと、昼間の職務だけが書かれた雇用契約書へ署名する。
否定形の一行を守るために、自分の休む時間にも否定形を置いた。