図書館から海を消す

七種暦が司書を務める世界では、ものを消すたび寿命が延びた。

サーバーの電力供給が打ち切られ、残りは三十日。住民たちは計算量を減らすため、使われない建物、山の裏側、夜空の星を削除した。海を平面画像に変えると五日、風を止めると二日延びた。

図書館には、世界中の記憶が本として保存されていた。一冊消せば数分。百万冊消せば十年。

市長は暦に命じた。

「読まれていない本から廃棄しろ」

最初は古い電話帳、重複した辞書、誰も知らない日記を消した。寿命表示が伸びるたび、市民は拍手した。

やがて対象は個人記録になった。亡くなった人の誕生日、終わった恋、子どもの頃の匂い。読者が一人しかいない本ほど効率が悪いと判定された。

廃棄を始めてから、暦は住民に感謝されるたび孤独になった。延びた時間の裏に何が消えたかを知るのは司書だけだった。街の人々は星のない夜にも慣れ、失ったものの名前さえ話さなくなった。

暦の母の記憶も棚にあった。海辺で弁当を食べた一日だけを収めた薄い本。母はもういない。読むのは暦だけだった。

消せば三分延びる。

市民広場では、残り寿命が一分を切っていた。暦は本を抱えたまま端末の前に立った。三分あれば、三人の出産が終わる。十組の夫婦が別れを言える。

彼女は削除を押した。

母の顔が思い出せなくなった。弁当の味も、波の音も抜け落ちた。ただ、自分が何か大切なものを差し出した痛みだけが残った。

世界は三分延びた。その間に赤ん坊が一人産まれ、病院中へ泣き声が響いた。

暦は空になった本を棚へ戻した。題名だけは消えずに残っていた。

《海へ行った日》

停止直前、赤ん坊の母が図書館へ来た。

「この子に海を見せたかった」

海はすでに画像一枚になっていた。暦はそれを壁へ映し、本の題名を読み聞かせた。内容は何も覚えていない。それでも声が震えた。

世界が暗くなる瞬間、暦は気づいた。記憶を失えば、人は同じではいられない。だが失ったことを悼む心まで消えたわけではない。

最後の一秒、赤ん坊が画像の海へ手を伸ばした。

暦にはその青が、初めて見る色に思えた。