墓守と冥月兎の爪切り
新月の晩、墓地に冥月兎が現れた。
黒い身体は納骨堂より大きく、耳の内側だけが骨のように白い。姿を見た者の名は翌朝の墓標に刻まれる――そんな噂がある神獣だ。
弔問客も僧侶も逃げた。
墓守のオルガは、門の内側に一人残った。
冥月兎は鉄柵の前で前脚を振り続けている。
墓を掘ろうとしているのではない。左の爪が柵の飾りへ引っかかり、抜けなくなっていた。
跳ねれば柵ごと壊せるはずなのに、兎は力を抑えている。すぐ脇には新しい墓標があり、揺らすたび土が崩れるからだ。死を運ぶと噂される獣は、誰より慎重に墓を避けていた。
「死のお告げにしては、ずいぶん困った顔ね」
オルガが近づくと、赤い目がぎらりと光る。
耳が立ち、墓地じゅうの草が伏せた。
それでも彼女は、植木用の鋏と爪鑢を持って柵の前へしゃがんだ。
「暴れたら爪が割れる。私も驚く。だから、二人とも静かにしよう」
冥月兎の鼻が、彼女の頭巾を嗅ぐ。
やがて前脚の力が抜けた。
爪は長く伸びすぎ、先端が内側へ曲がっていた。柵から外しても、このままでは肉球へ刺さる。
オルガは白い爪を少しずつ鋏で切った。ぱちん、と音がするたび、兎の長い耳が片方ずつ倒れる。
「あと三本。逃げないあなたは偉い」
二本目。
「あと二本」
三本目。
「あと一……ごめん、数え間違えた。もう終わり」
冥月兎は前脚を引き、地面へついて確かめた。
右、左、と交互に踏み、今度は短く三度跳ねる。墓標の間を一本も倒さず縫うように進み、最後にその場で大きく跳ねた。納骨堂の屋根を越えた黒い影に、門外の人々が悲鳴を上げたが、オルガには喜んでいると分かった。
着地した兎は、今度は墓を避けてオルガの前へ戻ってきた。
前脚を揃え、ぺたりと腹ばいになる。そして白い耳を二本とも彼女の膝へ載せた。
「名を刻みに来たんじゃなかったの?」
冥月兎は目を閉じた。
耳の表面は夜露で冷えていたが、撫でると内側からじんわり熱が戻る。二本分の重さに腿を押されながら、オルガは墓地で初めて、生き物の安心した寝息を聞いた。