声を置いていく
藤巻芙由は、最後の練習で一度も歌わなかった。
喉の手術を三日後に控え、医師から発声を止められている。大庭泉がギターを弾き、狭間史哉がドラムを叩く間、芙由はスマートフォンの読み上げ機能で歌詞を流した。
機械の声は音程を持たず、サビも平らだった。
「テンポ、遅い」
画面が無感情に告げる。
「文句だけは本人だな」と史哉。
「手術したら、その声にする?」と泉。
芙由は首を振った。手術が成功しても、以前と同じ声には戻らない可能性が高い。四月からデザイン会社で働き、歌わない生活を選ぶつもりだった。
泉は地方のコミュニティラジオ局へ就職する。音楽を流す側になる。史哉は別のボーカルを迎え、東京でバンドを続ける。
「名前、使っていい?」と史哉が訊いた。
芙由は入力する。
《使わないで。私の声がなくても同じ名前だと、私だけ消えたみたいだから》
史哉はスティックを握り直した。
「じゃあ新しい名前にする」
「新しいボーカル、決まってるの?」と泉。
「候補はいる」
芙由の指が止まる。知りたくないのに、訊かなかったことも後悔しそうだった。
《上手い?》
「上手い。でも芙由みたいには歌わない」
それが慰めではないことを、三人とも分かっていた。
最後の曲を始める。泉のギターと史哉のドラムだけで、芙由の歌う場所が空白になる。芙由は口を開かず、胸の中だけで歌詞を追った。
サビで泉がコードを一つ外した。史哉も次の小節を見失う。芙由は反射的に息を吸い、声を出しかけて、唇を閉じた。
演奏は崩れたまま終わった。
《録り直さない》
「分かってる」と泉。
片づけのあと、芙由は愛用していたマイクをスタンドから外さなかった。史哉が持っていけと言っても、首を振る。
《新しい人には渡さないで。捨ててもいい》
三人が出るとき、泉が最後に電源を切った。暗くなったスタジオで、マイクだけが銀色の頭をわずかに光らせた。
三日後、手術室へ向かう芙由のスマートフォンに、史哉から新しいバンド名が届いた。返信欄を開いたが、彼女は文字を打たなかった。
置いてきた声に、別れを言う言葉はなかった。