好きな曲の音量
竹下笑里は、好きな曲ほど小さな音で聴いた。大学時代、恋人に「まだそんなアイドルを聴いてるの」と笑われてから、イヤホンの片方だけで再生する癖がついた。別れて二年経っても、部屋で音を出すと誰かに評価される気がした。再生履歴は非公開にし、ライブの告知を見ても保存だけした。好きだと言えば、年齢に合わない、趣味が浅いと判定されるかもしれない。誰もいない部屋でまで音量を絞るたび、恋人の声ではなく、自分が自分を笑う声のほうが大きくなっていた。職場のカラオケでは流行曲を選び、「何でも聴きます」と答えた。好きだったグループの新曲は欠かさず買うのに、再生履歴を人へ見せる機能だけは切っていた。楽しむ前に、幼いと思われない形へ隠す癖がついていた。
ガス設備の点検で五日間だけ移った部屋には、土岐璃亜がいた。璃亜はダンスの発表会を控え、台所でも廊下でも拍を数えていた。練習動画を見返すときは失敗した箇所も飛ばさず、好きな曲には古いものも新しいものも混じっていた。誰かに説明するためではなく、身体が動く順に選んでいるようだった。音楽が流れていないときまで、足先だけが動いている。
笑里がイヤホンを外した拍子に、懐かしい曲が一秒だけ漏れた。璃亜は曲名を当てず、音量ボタンを見て訊いた。
「好きな曲って、何デシベルから恥ずかしくなる?」
「隣に聞こえたら困るくらいです」
「じゃあ明日、一曲だけスピーカーで流して。隣に聞こえないくらいでいい」
璃亜は踊ってみせることも、趣味を褒めることもしなかった。
翌日、笑里が帰ると璃亜は練習へ出ていた。部屋には自分しかいない。笑里はスマートフォンを卓上スピーカーへつなぎ、例の曲を選んだ。音量は一。耳を近づけなければ聞こえない。
前奏が始まり、身体が歌詞を先に思い出した。サビの直前で、笑里はいつものように音量を下げようとした。誰も笑わない部屋なのに、昔の声だけがまだいる。その声に合わせて小さくするたび、好きだった自分まで遠くなる。笑里は、曲の良さを誰かへ説明する必要はないのだと思った。
指を上のボタンへ置く。一度押した。音が少し広がり、食器棚のガラスがかすかに震えた。
笑里はイヤホンを手に取らなかった。サビの最初の言葉を、音に隠れない声で一緒に歌った。