姓を変えない婚約書
レナは、亡き母の姓を守って生きてきた。
騎士団長ゼノンから求婚されたときも、それだけは変えたくないと一度伝えた。
彼は「分かった」としか言わなかった。
その後、公的な書類には必ず「レナ・モール」と記され、誰かが団長家の姓で呼ぶと、ゼノンは無言で訂正した。彼は部下の名を階級でしか呼ばず、宴席でもほとんど話さない。それでも彼女の名だけは一字も間違えない。
婚約登録の日、書記官は当然のように新しい姓名を読み上げた。
「レナ・ゼノン侯爵夫人予定者」
レナは首を振る。
「その名では署名しません。モールのままにします」
書記官は困った顔をする。
「婚姻すれば夫家の姓へ入るのが慣例です」
「なら、婚姻しません」
広間がざわめいた。ゼノンが望み続けた婚約だと、皆が知っている。
宰相が彼へ囁く。
「団長から説得を。名を一つ変えるだけです」
ゼノンは婚約書を取った。
レナは胸を締めつけられる。彼が何も言わないぶん、失望が見えないことが怖かった。
ゼノンは姓名欄から自分の姓を消し、「レナ・モール」と書き直した。
「これで」
「夫婦別姓など前例がありません」と書記官が言う。
「作る」
宰相が笑う。
「そこまでして婚約を成立させたいのですか」
ゼノンはレナを見る。
「成立させるか」
「この名のままなら、考えたいです。でも今日は署名しません」
彼は頷き、書類を閉じた。
「今日はしない」
「団長、王家も日程を空けております」
「また空けろ」
書記官が別紙へ旧姓と記そうとすると、ゼノンは首を振った。旧い名ではなく、今も生きている彼女の名だ。欄の大きさまで直させ、母から受け継いだ姓を略させなかった。
ゼノンは封印魔法を掛け、レナ以外が署名できないようにした。
「姓も、署名日も、婚姻するかどうかもレナが決める。私が望んでいることを、彼女の同意として記録するな」