姓を返す日
ロザリーは、実家の姓で呼ばれるたび身体がこわばった。
ベルモント伯爵家。美しい響きの裏で、彼女は失敗するたび地下室へ入れられた。家出してからも、社交界では「ベルモント嬢」と呼ばれ続ける。
ヴィンセント公爵だけは、最初に尋ねた。
「何と呼ばれたい」
「ロザリー、と」
それ以来、彼の屋敷では姓を口にする者がいない。招待状にも、座札にも、ただ「ロザリー」と記される。家格を何より重んじる冷徹公爵が、紋章より彼女の一言を優先した。
婚約審査の日、実父であるベルモント伯爵が王宮へ乗り込んだ。
「娘を返していただこう。家長の許可なく婚約など認めん」
ロザリーの前には、実家の薔薇紋を刻んだ椅子が置かれている。座れば伯爵家の娘として審査を受けることになる。
ヴィンセントは椅子の紋章へ黒布を掛けた。
「彼女はその姓を望んでいない」
伯爵が笑う。
「血は消せん。娘は家の財産だ」
「人を財産と呼ぶ口で、父を名乗るな」
普段から裁判官より冷たい声だった。けれどヴィンセントは伯爵を追い出さなかった。ロザリーが決める前に、相手を奪わないためだ。
王室書記官が戸籍簿を開く。
「婚姻には父家の承認印が必要です。代わりに、本人が家名放棄を申請する方法もあります。ただし相続権をすべて失います」
伯爵が勝ち誇った。
「この娘に無一文になる覚悟などない」
ロザリーの手が震える。相続を失えば、公爵との身分差はさらに広がる。彼に迷惑をかける。
ヴィンセントは放棄申請書と婚約破棄届を並べた。
「どちらにも、私の承認印を押す」
「婚約破棄まで?」と書記官が驚く。
「彼女が家を捨てても、私を選ぶ義務はない」
伯爵が叫ぶ。
「公爵の庇護を失えば生きていけんぞ!」
ヴィンセントの視線が氷のように冷える。
「庇護を餌に従わせる気もない。住居と資金は、婚約の有無にかかわらず彼女自身の名で用意する」
ロザリーは家名放棄の紙だけを取った。
「ベルモントの姓を返します。婚約については、私の名で改めて考えます」
ヴィンセントは微笑まず、けれど誰より穏やかに書記官へ告げた。
「記録しろ。今ここにいるのは、誰の所有物でもないロザリーだ」