子育て予習パック
黒部詩乃は、七歳の里子を迎える前に十八年分の母親記憶を買った。自分は怒鳴る母に育てられ、子どもを傷つけない方法を身体で知らなかった。だから愛情まで予習できるという広告へ、救いを求めた。
朝の起こし方、熱の測り方、宿題をしない子への声かけ、反抗期に待つ時間。提供者は三人の子を育て上げた「理想母」と評価され、記憶パックには成功場面だけが整理されていた。
詩乃は自信を持って、里子を迎えた。
ところがその子は、優しい声で起こすと布団へ潜り、栄養を考えた料理を床へ落とした。褒めると怯え、抱きしめようとすると噛んだ。詩乃の中の理想母は、どんな場面にも正解を提示したが、正解どおりにするほど心は遠ざかった。
ある晩、その子が牛乳をこぼした。記憶パックは「失敗を責めず、一緒に拭く」と教えた。詩乃が笑顔で布巾を取ると、その子は泣き叫んだ。
「その顔、施設の人と同じ!」
詩乃はそのとき初めて、笑顔をやめた。
「ごめん。今、すごく腹が立った。疲れてるし、どうしたらいいか分からない」
その子は泣きやみ、少しだけ詩乃を見た。
記憶提供者を調べると、理想母の娘が訴訟を起こしていた。母は育児の失敗や怒りをすべて売却時に削除し、「幸せな子育て」だけを商品化した。娘たちは、自分たちが傷ついた出来事まで存在しなかったことにされたという。
詩乃はパックを削除した。翌朝から、寝坊し、弁当を焦がし、その子の言葉に本気で傷ついた。児童相談AIの養育評価は下がった。
それでもその子は、少しずつ試すようになった。わざと靴を隠し、夕食を残し、詩乃が本当に怒っても自分を捨てないか確かめた。
半年後、初めて「ただいま」と言ってくれた日、詩乃は返事を噛んだ。理想の記憶なら、きっと美しい言葉を知っていただろう。
彼女は泣きながら「おかえり。遅いよ」とだけ言った。
予習を捨てて得たのは、母親らしさではない。その子の過去を上書きせず、二人で失敗を覚えていく覚悟だった。