安堵を食べる夜番

 城門の結界に棲む青い精霊は、安堵のため息を一つ食べると、壁を一時間だけ強くする。

 食べられた安堵は、同じ相手や出来事について二度と戻らない。

 ジルダは夜番台から、炎に照らされた平原を見ていた。

 避難民が入りきるまで、あと一時間。結界はひび割れ、外では黒い獣の群れが爪を立てている。

「餌がない」

 青い精霊が門石の上で震えた。

「おまえは今夜、一度も安心していない」

 当然だった。

 門の外には、偵察へ出た娘のリンがいる。

 十七歳の娘は、日暮れまでに戻る約束をした。だが月が中天へ上がっても姿はない。ジルダは結界を見張りながら、街道の一点を何度も探した。

 娘が帰れば、その瞬間の安堵を精霊へ渡せる。

 そうすれば避難民を救える。

 同時に、リンが無事でも二度と安心できなくなる。

 門の向こうで角笛が鳴った。

 一頭の馬が獣の群れを縫って走ってくる。背にはリンが伏せ、片手で避難民の子どもを抱えていた。

「門を開けて!」

 娘の声が届く。

 ジルダは結界を一瞬だけ解いた。

 馬が滑り込み、リンと子どもが石床へ転がる。門を閉じた直後、獣の牙が青い光へ突き刺さった。

「お母さん」

 リンが立ち上がる。

 頬に血がついているが、自分のものではない。指も動く。息もしている。

 その姿を確かめた瞬間、ジルダの胸から大きな息が抜けた。

 帰ってきた。

 生きて帰ってきた。

 青い精霊が歓喜して飛びつく。

「それをくれれば、夜明けまで壁を保てる」

 安堵を渡せば、これから娘が隣で眠っていても、無事だと思えない。遠出のたび、帰宅のたび、抱きしめるたび、胸の警報は鳴り続けるだろう。

 母親であることの中に、安堵できる瞬間が一つもなくなる。

 リンがジルダの顔を覗き込んだ。

「もう大丈夫」

 その言葉が、今だけは本当だと分かった。

 背後では、最後の避難民が門へ駆け込んでくる。

 結界のひびが広がった。

 ジルダは娘を強く抱きしめた。

 髪の匂い、背中の温度、耳元の鼓動を覚える。安心して抱けるのは、これが最後になる。

「おかえり」

 彼女は息を吐いた。

 青い精霊が、その安堵を一滴も残さず吸い込む。

 結界が空を覆うほど輝き、獣の群れを押し返した。

 リンは腕の中にいる。

 それでもジルダの心臓は、娘がまだ門の外にいるときと同じ速さで鳴り続けていた。