宛名のないおやすみ

「おやすみは、一日の終わりに言うものだよ」

南雲千佳が深夜まで働くたび、仁木寛人はそう注意した。二人は同じオンライン講座で知り合い、東京と福岡から毎晩勉強した。講義が終われば《お疲れさま》で通話を切り、《おやすみ》だけは言わない。言えば、仕事仲間より近くなる気がしたからだ。寛人が眠そうに瞬きをする時刻も、千佳がミルクを温める音も知っているのに、通話を切ったあとの生活だけは互いに立ち入らなかった。

最終講義の夜、寛人は転職が決まり、しばらく勉強会を休むと告げた。千佳は笑って祝った。寛人の新しい勤務は夜が早く、講座の時間にはもう眠っているという。次に通話する日を聞けないまま、画面は閉じた。机の端に残った二人分の学習記録だけが、急に過去のものに見えた。

午前一時、千佳は妹へ送るつもりで打った。

《寛人におやすみって言いたかった》

《明日から話す理由がないの、思ったより寂しい》

送信先は寛人だった。

千佳は枕へ顔を埋めた。既読になったのに、返信はない。

数分後、ビデオ通話がかかってくる。画面の寛人は、講義中に使っていたヘッドセットを外し、私服のままベランダに立っていた。

「まだ起きてる?」

「誤送信したから」

「じゃあ、用事がなくてもつながるか試したい」

寛人は共有カレンダーを開き、明日の二十三時に《千佳と話す》と入力した。翌日も、その次の日も一週間分。週末には福岡発東京行きの航空券が表示され、参加者欄へ千佳が招待されている。

千佳はすべて承諾し、最終日の予定名《講座終了》《初めて会う日》へ変えた。画面越しに寛人が手を上げる。千佳も同じ位置へ手を重ねた。触れられない距離なのに、今までより近かった。週末に本物の掌を重ねる日まで、この形を覚えておこうと千佳は思った。

「寛人」

名字を外すと、彼は少し笑う。

「おやすみ、千佳」

「うん。また明日」

通話を切ったあとも、次の予定は消えない。

おやすみは一日の終わりに言うものだった。

けれど誤って届いた最初の一言は、二人にとって、毎日会う約束の始まりになった。