屋根を打つ夜
山あいの宿で、客は風歌一人だった。
出張先から帰る道が大雨で通行止めになり、急きょ泊まることになった。古い木造の二階、窓の外は暗く、雨が瓦を絶えず叩いている。
女将の可南子は、「眠れないでしょう」と小さな土瓶を持ってきた。中には炒った米の茶が入っている。
「この屋根、音が大きくて」
「私は好きです」
風歌は普段、駅前のマンションに住んでいる。雨の日も窓を閉めれば、ほとんど聞こえない。
土瓶から茶を注ぐ。焦げた米の香りが部屋へ広がり、雨音の角を丸くした。
可南子は、屋根のどこに落ちるかで音が違うと教えた。広い瓦は低く、樋の近くは高い。二人で耳を澄ますと、確かに遠近がある。
「昔、子どもを寝かせるとき、雨の数を数えました」
「数えられました?」
「三十までに寝るから」
可南子が戻ったあと、風歌は布団へ入った。雨粒を一つずつ数えようとしたが、七つ目で別の音に紛れた。
夜中に目を覚ますと、雨は弱くなっていた。土瓶の茶は冷めている。それでも飲むと、米の甘さが残っていた。
翌朝、通行止めは解除された。宿を出ると、山の土と杉の匂いが濃い。屋根から最後の雫が落ち、石へ高い音を立てた。
帰宅した夜、雨が降った。マンションの窓を少し開け、ベランダの手すりを打つ音を数える。十五を過ぎた頃、風歌の指には宿でもらった茶葉の袋があり、焦げた米の香りが静かに眠りを連れてきた。
風歌は自宅でも炒り米の茶を作るようになった。うまく炒れず、最初は少し焦がした。けれど雨の夜に飲むと、その焦げも山の宿の香りに近く感じる。可南子へ礼状を書くと、返事には〈こちらは今夜も三十まで降っています〉とあった。意味を知っているのは二人だけだ。ベランダを打つ雫を数え、途中で数を忘れる。忘れたところから眠りが始まるのだと、風歌は思った。
茶葉がなくなる頃、風歌は自分で炒る加減を覚えた。少し深く、煙が出る直前まで。雨の夜、缶の蓋を開けると、山の暗さと濡れた杉の香りまで戻ってきた。