川が静かすぎる

午後四時十二分、安積万丈の防災携帯へ、下流の小学校教師から電話が来た。

『川が静かすぎるんです』

遠足帰りのバスが古い橋へ近づいている。上流では地滑りが川を堰き止め、天然のダムが膨らんでいた。三分後、それが決壊する。

万丈が緊急放流を始めると、濁流同士がぶつかって橋を持ち上げた。視界が茶色に染まり、次にはまた四時十二分。机の湯呑みから一滴こぼれる。

バスが橋を渡り切るまで水位を警戒線以下に保ち、車両位置を対岸へ移す。それが反復の出口だった。

教師へ引き返すよう頼むと、細い県道でバスが立ち往生し、決壊波に追いつかれた。

町全域へ避難警報を出しても、規定値前の誤報として上司が取り消し、橋の遮断機も上がったままだった。

『川が静かすぎるんです』

その静けさは、水が消えたのではなく、上流に溜め込まれた音だった。

万丈はダムの旧図面を開いた。主放流路とは別に、山側の非常水路がある。開けば決壊波を分散できるが、出口は万丈の生家がある集落へ向いていた。祖父母の墓、母の畑、祭りの社、高齢者ばかり三十戸の家。国が新水路を造る際、住民の反対で封鎖されたままになっている。

住民を三分で逃がすことはできない。だが今日は年に一度の共同健診で、集落の全員が隣町に集まっている。人はいない。残るのは家と土地と、戻る場所だけだった。

次の電話で、万丈は教師へ橋の中央で停まらず進むよう伝えた。それから非常水路の封印コードへ、自分の家の地番を入力する。

上司が止めた。

「そこを開けたら、お前の村がなくなるぞ」

「村だけで済むうちに開けます」

水門が上がった。

山腹から黒い水が横へ走り、生家の屋根を剥がし、墓石を倒し、社の赤い鳥居を呑んだ。下流の水位計はぎりぎりで折れ曲がる。バスの位置表示が橋の対岸へ移った。

四時十五分を越えた。

教師の電話から子どもたちの泣き声と、無事を数える声が聞こえる。万丈は礼を受けずに切った。

監視映像には、集落だった場所を流れる新しい川が映っていた。湯呑みの一滴は机の端まで進み、もう元へ戻らない。

万丈は非常水路を閉じなかった。故郷の住所を防災地図から消し、そこへ青い線を一本引いた。