左耳のぬいぐるみ
一時的に預かった子どもは、熊のぬいぐるみを片時も離さなかった。
里親夫婦が食事へ誘っても、質問へ答えるのは首を振るか、うなずくだけ。
いつ別の場所へ移るか分からないから、荷物も鞄から出さなかった。
児童用品店で、玩具用の翻訳スプレーを見つけた。
ぬいぐるみへ吹きかけると、左耳へ囁かれた言葉だけを、古い順に一度ずつ話すという。
子どもが面白がって熊へ吹きかけた。
熊は幼い声で言った。
「今日は泣かなかった」
子ども自身の、もっと小さい頃の声だった。
次は、
「いい子なら、ここにいられる」
「お菓子、全部食べない」
「好きって言わない。いなくなるから」
夫婦は顔を見合わせた。
子どもは熊を取り上げようとしたが、熊は次の言葉を続けた。
「この家、好き。でも聞かない」
子どもは熊を抱いて部屋へ逃げた。
夫婦は追わなかった。
翻訳された言葉を証拠に、気持ちを聞き出すのは違うと思った。
夕食を温め直し、いつもの席へ熊の分の小皿も置いた。
夜遅く、子どもが戻った。
「聞かないって、何を」
妻が尋ねかけ、やめた。
代わりに言った。
「私たちから話していい?」
夫婦は、すぐに永遠を約束できないことを正直に話した。
手続きも、相談する人もいる。
けれど、子どもがここにいたいと言うことは、迷惑でも悪いことでもない。
いい子でなくても、明日の朝食は用意する。
「嫌いって言っても?」
「夕飯は出る」
「物を壊しても?」
「怒る。でも、追い出す話とは別」
「泣いても?」
「熊より先に聞く」
子どもは熊の左耳へ何か囁いた。
翻訳スプレーの効果はまだ残っていたが、熊は話さなかった。
両手で耳を押さえられていたからだ。
数か月後、子どもの鞄の中身が少しずつ部屋へ出た。
服。
本。
壊れた玩具。
机の引き出しには、熊専用の場所ができた。
手続きが進み、この家で長く暮らすことが決まった日、子どもはもう一度スプレーを使った。
熊が言った。
「ただいまって、言ってみたい」
子どもは顔を赤くした。
夫婦は聞こえなかったふりをしなかった。
「おかえり」
二人で答えた。
熊はそれ以降、左耳の言葉を話さない。
囁く相手が、ぬいぐるみだけではなくなったからだ。