帯を切る日

鹿取芙美は、実家の売却同意書を鞄に入れたまま、「封蝋盤店」へ入った。

父が亡くなって一年。誰も住まない家の維持費を、姉と払い続けている。売ることには賛成したはずなのに、署名できない。姉から催促されるたび、印鑑が見つからないふりをした。家を手放せば、父との食卓まで解体される気がした。

ガラス棚に、未開封のLPがあった。

父がよく聴いていたピアノ奏者の最後のアルバム。半世紀前の帯がつき、透明な包装は茶色く縮んでいる。父の棚にも同じ盤があったが、彼は「特別な日に開ける」と言って、結局一度も針を落とさなかった。

「中の状態は分かりますか」

店主は包装越しに盤を傾けた。

「目視できる範囲では。完全には、開けないと」

芙美は買うと決めてから、少し考えた。

「ここで開けてもらえますか」

店主は封を保つ価値について説明せず、カッターの刃を一目盛りだけ出した。帯を傷つけないよう、背の反対側へ細い切れ目を入れる。包装を全部剥がさず、口だけ開く。盤を取り出し、反りを確かめ、新しい内袋へ移した。

試聴すると、最初の音の前に、奏者が椅子を引く音が入っていた。

父が守っていた「特別」は、こんな小さな生活音から始まった。聴かれなかった時間を責めるような音ではない。今日まで閉じていたから、今日の芙美が最初に聴けた。

店主は古い包装を捨てず、帯と一緒にジャケットの中へ入れた。会計済みの印は、包装ではなく新しい外袋へ押す。開けたあとも、帯は残る。

芙美はレジ台の端で同意書を出した。

家を売れば、柱も庭も自分のものではなくなる。けれど、父と聴いた曲、聞かなかった曲、食卓で交わした言葉まで買主へ渡すわけではない。

署名欄に「鹿取芙美」と書く。

日付を入れ、姉へ写真を送った。

店主が盤を戻すとき、切れ目を上にした。次に聴くとき、またそこから取り出せるように。

芙美は開封済みになった一枚を抱え、売却同意書を封筒へ入れた。どちらも、失われたのではなく、使える状態になっていた。