広告の海を抜けて
終電のデジタル広告は、誰も見ていなくても笑顔を繰り返した。
化粧水を持つ人。白い歯を見せる人。新しい部屋で腕を広げる人。画面が切り替わるたび、車内の明るさも少し変わる。青、白、淡い桃色。つぐみの窓には、その色が順番に映った。
つぐみは広告制作会社で、同じような笑顔を一日じゅう選んでいる。目元を少し明るく、肌の影を薄く、背景の生活感を消す。今日も修正を終えたのは終電の十五分前だった。
車輪が回り、空調が髪を揺らす。窓の外には雨でにじんだ町が流れ、内側には広告とつぐみの顔が重なる。笑顔のモデルが切り替わるたび、自分の頬だけが疲れたまま残った。
向かいの座席で、女性が眠っていた。マスクが少しずれ、口がわずかに開いている。膝の上のエコバッグから長ねぎが一本出ていた。電車が揺れるたび、ねぎの青い先が広告の方向へ小さく振れる。
画面には「理想の私へ」という文字が出た。広告の中では、朝の光が差す寝室でモデルが伸びをしている。現実の車内では午前零時を過ぎ、窓の外を雨が横へ流れていた。
その直下で、長ねぎが一度大きく揺れた。つぐみは笑いそうになり、声を出さずに口元を押さえた。眠っている女性は気づかない。
次の駅で女性は目を覚まし、慌てずマスクを直した。長ねぎをバッグへ押し込み、まだ少し出たまま降りていく。ホームの白い照明に、青い先だけが最後まで見えた。
広告はまた最初から始まった。女性の座っていた場所には、エコバッグの底がつくった四角い跡が残っている。つぐみはそこへ長ねぎの影を思い出し、今度は少しだけ頬をゆるめた。
化粧水。白い歯。新しい部屋。画面の人物は同じ速度で笑い、車輪も同じ速度で回る。どちらもつぐみの返事を待ってはいなかった。
化粧水。白い歯。新しい部屋。つぐみはもう画面を見ず、黒い窓へ映る自分を見た。疲れた目も、崩れた前髪も、修正前と呼ぶ必要はない。帰宅途中の顔というだけだった。
スマートフォンで自撮りを開きかけ、やめた。今夜の自分を保存しなくても、消去しなくてもいい。
終電は広告の色を載せたまま暗い区間を走った。つぐみは座席へ頭を預けた。理想の誰かにならない時間を、一人で過ごしても大丈夫だった。