引っ越し箱の方角
天野瑠衣は、どの部屋も自分の家だと思えなかった。
父の転勤で十回、就職してから四回引っ越した。新しいワンルームは日当たりもよく、駅にも近い。それでも鍵を開けるたび、ホテルへ帰るような気持ちになる。壁に穴を開けるのが怖く、写真も飾れない。段ボールには、次の引っ越しで困らないよう、封を切らない箱さえあった。
方丈錬は、胸に真鍮の方位磁針を留めた時計職人だった。針は北ではなく、工房の奥に積まれた段ボール箱を指している。
「帰る場所は北ではない」
錬は瑠衣の家形の置時計を受け取った。幼稚園の工作で、屋根が曲がり、数字はクレヨンで書かれている。どの家にも持っていったが、三年前から鳴らなくなった。
「家の記憶を戻せば、今の部屋も好きになれますか」
「記憶に内見はできません」
錬は素っ気なく、置時計の底を外した。中から小さな紙片が十四枚出てくる。
最初の家では柱に身長を書いた。次の家は社宅で柱へ書けず、母が紙に印を付けて時計の中へ入れた。それから引っ越すたび、日付と身長、短い言葉が増えている。
『この家では自転車に乗れた』
『この窓から初雪を見た』
『初任給でカーテンを買った』
最後の紙だけは、瑠衣自身の字だった。
『まだ何もない』
今の部屋へ越した日に書き、入れたことさえ忘れていた。
「だから止まった?」
「時計は、無いものを計れない」
錬は新しい紙片と鉛筆を渡した。瑠衣は考えたが、立派な思い出は浮かばない。昨日、床でコンビニのおにぎりを食べた。朝、隣のベランダから柔軟剤の匂いがした。まだ段ボールは半分も開いていない。
「それで十分」
初めて錬の方位磁針が動き、瑠衣の手元を指した。
彼は置時計の底へ小さな鍵を取り付ける。新居の合鍵を差せる幅だった。
「帰る場所は北ではない」
「じゃあ、どこですか」
「今日の鍵で開く方」
工房を出ると、胸の中の針がわずかに定まった気がした。
部屋へ戻り、瑠衣は紙に書く。
『この家で、初めて家の記憶を作ろうと思った』
紙片を入れると、曲がった屋根の時計が鳴った。方角を教える音ではない。ここから場所を家にしていく、最初の時報だった。