心拍四十のテンポ

尾留川七瀬の再生画面は、心拍数が四十を下回った深夜だけ開いた。

競泳選手の七瀬なら、睡眠前に呼吸を整えれば届く数字だ。曲名は〈REST〉。胸のセンサーと連動し、鼓動が一つ下がるたび、黒い波形に冷たいピアノ音が増える。

「もっと静かに」

それは亡き父が、試合前の七瀬へ教えた呼吸法と同じ言葉だった。父はスポーツ記者で、二年前、代表合宿所の睡眠検査中に死亡した。担当医は突然死と説明し、検査データはプライバシーを理由に渡されず、遺品の腕時計だけが初期化されて返った。

Aメロは心電図の電子音でできていた。七瀬の脈と、もう一つの遅い脈が左右から交互に鳴る。右側は父の検査記録だった。薬剤投与後、心拍が急に下がっている。七瀬は息を長く吐き、自分の脈を三十九まで落とした。

「もっと静かに」

二度目の声で、父が死の間際まで娘を落ち着かせようとしていたのだと思った。サビが始まると、隠されていた室内マイクが開く。ベッドの軋み。父の荒い呼吸。担当医が、選手への違法な鎮静剤投与を調べた記事を出すなと迫る声。

父は拒んだ。注射器のキャップが外れる。心電図のテンポが乱れ、警報が鋭く鳴り続ける。そこで男の声が低く入った。

〈騒ぐな。声を落とせ〉

七瀬の心拍が跳ね、再生条件を外れそうになる。画面はもう残り三秒。部屋のドアが開き、現在もチームを診る同じ担当医が入ってきた。なぜそのファイルを持っている、と問い、七瀬の腕をつかむ。

七瀬は息を吐いた。脈を四十未満へ戻し、最後の一音まで再生する。音源は自動的に記者仲間と警察へ送信された。父は検査機器の低心拍アラームに送信機能を仕込み、競技者である娘だけが解除できるようにしていた。

医師の端末にも送信完了が表示される。

七瀬は腕を振りほどき、父の声ではなく、犯人の声として最後の言葉を聞いた。

「もっと静かに」

心を鎮める優しい助言ではない。真実を告げようとした父を、永遠に黙らせるための命令だった。