投了の一手前
二十二時五十分。将棋道場の閉店まで十分、橘高惇平と井守由良は百局目の盤を挟んでいた。由良は明朝、海外の研究所へ発つ。帰国時期は決まっていない。
二人は負けたほうが夕食を奢るだけの友人だった。恋愛の相談もしたが、互いの名前だけは一度も候補に出さなかった。惇平は、口にしなければ盤のように関係が保たれると思っていた。対局後の食堂ではいつも向かいではなく隣へ座ったが、それも盤を離れたら勝負を続けないためだと言い訳した。
由良の駒袋には、玉将が二枚ある。一枚は十年前、駒をなくした彼女へ惇平が貸したものだ。
「今日、返す」と由良が盤の外へ置いた。
「予備で持ってろよ」
「玉が二枚じゃ、同じ盤にいられないでしょ」
「将棋はそういうルールだから」
「盤の外なら、二人でもよかったんだけどね」
惇平は冗談だと思い、次の手を指した。由良は笑って応じる。残り五分、彼女には詰みがあったが、別の駒を動かした。
「勝ったら、一つだけ本音を言う」と由良が言った。
「じゃあ勝てよ」
「惇平が負けてくれたら、言える」
「手加減は友達に失礼だろ」
二十二時五十八分。惇平は王手をかけ、由良は投了した。
「これで百局、五十勝五十敗」と惇平が言う。
「最後まで引き分けか」
由良は玉将を一枚だけ残し、駅へ急いだ。
片づけていると、駒の底に薄い紙が貼られているのに気づいた。十年前の由良の字だった。
〈これを返す日に、惇平の隣に置いてと言う〉
今日、彼女は盤の外へ確かに置いた。惇平はそれを予備の駒として押し返していた。
さらに棋譜を見直すと、由良が避けた詰みが赤鉛筆で囲まれ、その横に〈勝ったら好きと言う〉と書いてある。彼女は本音を言うための勝ちを、自分では選べなかった。惇平もまた、負ける意味を訊かなかった。
駅へ電話しても、由良の番号は機内モードになっていた。道場主が照明を消す。
惇平は最後の棋譜の結果欄へ、自分の勝ちではなく〈投了〉と書いた。二枚の玉将を同じ駒袋へ入れ、紐を結んだ。