散歩禁止の犬
笠松温子は七十八歳まで、規則を破ったことがなかった。
信用点九百一。高齢者住宅では模範入居者で、食事は残さず、健康体操にも皆勤だった。夫を亡くしてから会話は減ったが、静かなことも《周囲への配慮》として加点された。
雨の日、住宅の裏で痩せた犬を見つけた。首輪の端末は赤く点滅していた。
《動物行動信用:七十四。無駄吠え、指定経路逸脱、複数回の捕獲逃走》
施設規則では、六百点未満の動物を敷地へ入れてはいけない。温子は管理AIへ通報しようとした。すると犬は一度も吠えず、濡れた鼻を彼女の掌へ押しつけた。
その夜だけのつもりで部屋へ入れた。
犬は食卓の下で眠り、朝になると散歩を要求した。温子が決められた健康コースを歩くと、犬は途中で踏ん張り、細い路地へ曲がった。公園では子どもの球を追い、花壇へ鼻を突っ込み、見知らぬ老人の弁当を狙った。
一時間の散歩で、温子の点は四十下がった。
管理AIは犬の引き渡しを命じた。拒否すれば退去となる。職員は「今の年齢で低信用区へ移るのは危険です」と説得した。
温子は犬を見た。犬は説明を理解せず、尻尾で床を叩いていた。夫の死後、誰も彼女の帰宅を待って音を立てたことはなかった。
「一緒に退去します」
移った先は、古い商店街の二階だった。階段は急で、暖房も弱い。犬は相変わらず道を外れ、温子は毎日謝って歩いた。そのたび八百点、七百点と数字は下がった。
代わりに、名前を呼ぶ人が増えた。肉屋は犬用の端切れをくれ、子どもたちは散歩を手伝い、同じ低信用の老人たちが店先で待っていた。
一年後、犬の行動信用は百二十まで上がった。温子は三百台へ落ちた。
端末は《相互影響として不適切》と表示したが、温子は笑った。
犬のおかげで模範的な老後を失った。けれど散歩のたび、予定外の角を曲がる人生が、まだ自分に残っていることを知った。
犬には結局、立派な名前をつけなかった。呼べば来る日も、来ない日もあった。それでよかった。