数値にならない匂い

佐分利紫乃は、香料事故で嗅覚を失い、分子解析鼻を入れた。新しい鼻は一兆種類の成分を識別し、濃度を小数点以下まで表示した。

紫乃の調香は完璧になった。恋愛成就率の高い香り、購買意欲を上げる香り、悲しみを短くする香り。依頼人が「初恋の夏」と言えば、AIは年代と地域から草木の成分を推定した。客はよく泣いたが、紫乃にはその涙さえ計算どおりに見えた。感情予測AIと組めば、失敗はなかった。

ただ、母の箪笥の匂いだけは作れなかった。

古い着物を嗅いでも、樟脳、木材、皮脂、黴としか表示されない。数値を保存すれば、箪笥を捨てても再現できるはずだった。それなのに、測定するほど母が細かな成分へ解体されていった。幼い紫乃が熱を出した夜、母の袖へ顔を埋めた安心は、どの成分にも含まれていなかった。

母が亡くなり、箪笥を処分する日、紫乃は何本も試作品を作った。解析値は一致しているのに、すべて違った。

「記憶に基づく主観誤差です」と調香AIは告げた。「商品化価値はありません」

紫乃は怒り、分子名を意味へ変換する補助層を切った。

途端に、世界が襲ってきた。甘い、苦い、湿った、焦げた。分類されない刺激が頭の中で混ざり、彼女は床へ座り込んだ。その混乱の中に、母の箪笥があった。

同時に、病室の消毒液、葬儀の花、最後に握った冷たい手まで蘇った。安心だけではない。母を失う怖さも、嫌いだった樟脳も全部一緒だった。

紫乃は泣きながら笑った。

会社は補助層の再起動を命じた。彼女は辞職し、小さな店を開いた。客には先に、忘れたくない場面を話してもらう。完成した香りは効能を保証せず、同じ配合でも人によって違って感じられた。

最初の商品には名前をつけなかった。

瓶を開けると、紫乃には母の箪笥が匂う。別の客は雨上がりの教室だと言い、ある老人は何も思い出さなかった。

数値にならないことを失敗と呼ばなくなってから、紫乃は初めて、人のためではなく人と一緒に香りを作れるようになった。