数字が消える乳白湯
王都の会計官セドリックには、世界が帳簿に見えていた。
人の頭上には年収、建物には資産価値、料理には原価が浮かぶ。王家の鑑定魔法を使いすぎた結果だ。温泉宿《余白亭》へ来ても、女将ミーナの額には「労働価値・銀貨四枚」と表示されている。
「娘の誕生日なのに、顔を見ると養育費の総額が出る」
祝いたいのに、数字が先に立つ。今夜までに消えなければ、娘には会わず職場へ戻るつもりだという。
ミーナは一人用の乳白湯を示した。
「《余白の湯》は、見えないものを増やします」
「数字を消すのではない?」
「数字以外を、前へ出します」
セドリックが湯へ沈む。乳白色の蒸気が眼鏡を曇らせた。曇りの上にまで《清掃費・銅貨二枚》と文字が浮かび、彼は反射的に拭こうとしたが、ミーナが止める。
「見えなくなるのは不安です」
「見えないものを全部損失扱いする癖も、今日は置いてください」
会計官は眼鏡から手を離した。
「今日は曇ったままで」
壁の価格、桶の耐用年数、湯一杯の燃料費。浮かんでいた数字が蒸気の向こうへ隠れる。数字が消えるたびに、今まで数字の後ろへ追いやられていた木目や水滴の形が現れた。
「何も見えない」
「音は?」
庭で虫が鳴いている。
「匂いは?」
「石鹸と、少し木」
「湯の温度は?」
セドリックは答えかけて、温度計の数値を探すのをやめた。
「気持ちいい」
報告書にも決算書にも書けない感想だった。その一言を口にした途端、曇りの向こうに月が見えた。価値も直径も表示されない、ただ丸い月だった。
湯上がりには魔法の数字が戻った。ミーナの額にも労働価値が再表示されたが、その前に疲れた笑顔が見えたので、セドリックは深く頭を下げた。ただし人の顔を見る一呼吸だけ、表示より先に表情が見えるようになっていた。
翌朝、娘からの短い礼状が宿へ届く。
『お父さんが、私の年齢を間違えず、値段を言わずにケーキを選びました』
セドリックは料金を一枚も違えず払っていた。だが皿の端に、帳簿へ記載のない銅貨が一枚ある。初めての心づけだった。
ミーナが笑って銅貨を箱へ入れると、玄関ベルが余白を埋めるように鳴った。