旅館の帳場
海辺の旅館で、猫の「波止場」は帳場に座る。
客が来ると鍵箱の上から眺め、帰るときだけ玄関までついていく。若女将の汐里より、猫へ挨拶する常連も多い。
閑散期の月曜、一人旅の彬生が泊まりに来た。荷物は小さく、夕食も要らないという。
夜、彬生は帳場の前の椅子で波止場を撫でていた。
「昔、同じ柄の猫を飼ってました」
茶色と白のぶち模様。名前は聞かなかった。
汐里は余った魚のあらで潮汁を作り、小さな椀を出した。彬生は礼を言い、湯気へ顔を近づける。
「猫には塩辛いから、あげないでくださいね」
波止場は分かっているように椅子の下で丸くなった。
翌朝、雨で船が欠航した。彬生はもう一泊することになり、ロビーで本を読んだ。波止場は一日中、その足元にいた。
何を話すでもない。汐里は帳簿をつけ、客は頁をめくり、猫は眠る。外から波と雨の音が交互に来る。
翌日、船が出た。彬生は玄関で波止場の頭を撫で、「じゃあ」と言った。
猫はいつものようについていき、桟橋の手前で止まった。
部屋を片づけると、椅子に茶白の毛が数本残っていた。汐里は粘着テープで取らず、窓を少し開けた。
潮汁の出汁と湿った畳、海から戻った猫の毛の匂いが混じる。次の客が来るまで、空いた椅子には昨日の人の体温が薄く残っているようだった。
数か月後、彬生から絵葉書が届いた。海ではなく、自宅の窓辺と、茶白の猫の古い写真が印刷されている。裏には〈静かな二泊でした〉とだけあった。汐里は帳場の鍵箱へ立てかける。波止場は葉書の角へ頬を擦り、その前で眠った。夕食の仕込みで潮汁を作ると、湯気がロビーまで流れる。空いた椅子、猫、遠い客の一文。それだけで閑散期の帳場には、人が長く座ったあとの温度が戻った。
夜、汐里が帳簿を閉じると、波止場は葉書の前で伸びをした。紙が一度倒れ、また立て直す。誰も泊まらない部屋から、畳の乾く匂いが下りてきた。