昇進通知と非常停止
生産記録達成まで七分、楠見元希の腕時計に通知が届いた。
〈四十五歳の工場長である君より。黄色ランプを無視しろ。停止ボタンは押すな〉
自動車用ブレーキ部品の夜勤ライン。午前零時までに一万個を作れば、契約社員の元希は正社員班長へ昇進できる。操作盤の横には片方だけの黄色い作業手袋。班長が叫んだ。
「停止すれば今日の記録はゼロだ!」
検査機の黄色ランプが点滅する。元希は通知に従い、警告をリセットした。一万個目が箱へ落ち、昇進通知が表示された瞬間、ベルトコンベアが逆回転した。
〈黄色ランプを無視しろ〉
「停止すれば今日の記録はゼロだ!」
二度目は検査速度を落とした。三度目は不良品だけ手で抜いた。差分に応じて完成数は変わるが、一万個へ届くと七分前へ戻る。未来の自分は警告解除コード、センサーを塞ぐ位置、抜き取ってよい個数まで送ってきた。
十六回目、元希は黄色い手袋を検査機へ通した。厚みセンサーが正常なら停止するはずだが、ランプが一度光るだけで通過した。部品の穴径を測るレーザーが、夜勤開始前から〇・八ミリずれている。
未来の工場長は、そのずれを「許容誤差」として処理し、生産記録を守った。添付された回収報告書には、二年後に数十万個を交換した損失が記されている。会社は下請けへ責任を押しつけ、工場長の経歴には傷がついていない。
〈成功条件:一万個を出荷確定し、検査ログを上書き〉
十七回目。班長が叫ぶ。
「停止すれば今日の記録はゼロだ!」
元希は一万個目が落ちる直前に、赤い非常停止ボタンを押した。ライン全体が金属の悲鳴を上げて止まる。完成品九千九百九十九個を〈全数隔離〉へ変更し、元ログを本社品質部と取引先へ送信した。
昇進候補の表示が消え、契約更新欄も〈保留〉になる。全数廃棄なら工場は受注を失い、来月閉鎖される可能性が高い。元希自身も退職金すらない。
未来から通知が三度震えた。
〈一本の線で人生を捨てるな〉
〈工場長になれば後で直せる〉
〈停止を解除しろ〉
元希は黄色い手袋を検査箱の上へ置いた。
「後で直す人間になるために、今壊したくない」
午前零時。一万個の記録は達成されなかった。時計は零時一分へ進み、腕時計には昇進ではなく事情聴取の通知が届く。
止まった工場は驚くほど静かだった。元希はその静けさの中で、初めて自分の呼吸を数えた。