春分の影
四方田魁は、妻を亡くしてから、梅畑を売ることばかり考えていた。
六十七歳。子どもは町を出て、三百本の木を一人で守るには広すぎる。買い手は畑を造成し、分譲住宅にするという。
春分の日、畑の中央で夕日を背にすると、魁の影だけが杖をついていた。
自分は立っているのに、影は腰を曲げ、ゆっくり手招きする。
その影へ足を重ねた瞬間、魁は二十年後の畑にいた。
八十七歳の自分が、車椅子に座っている。日が沈むまで、二人は同じ場所で向き合って会えるらしい。
周囲には住宅が並び、梅畑はなかった。ただ、古い一本だけが小さな公園の真ん中に残っている。
「全部売ったのか」
若い魁が聞く。
「ほとんどな」
未来の魁は膝掛けを直した。
「後悔したか」
「した。売らなくても後悔しただろう」
役に立たない答えだった。
公園では子どもたちが、落ちた花びらを集めている。一本の梅には、妻が昔つけた木札が残っていた。
《春告》
妻は木に名前をつける癖があった。魁はくだらないと言いながら、全部覚えている。花の遅い木は「寝坊」、二股の枝は「夫婦喧嘩」。妻が病床で最後に見たがったのも春告だったが、魁は剪定が忙しいと言って写真だけを持っていった。
「なぜ、あれだけ残した」
未来の魁は枝を見上げた。
「売買契約の日、急に惜しくなった」
「それだけか」
「孫が生まれてからは、毎年ここで写真を撮った」
「孫?」
「お前、未来へ来て最初に聞くことが土地の値段か。相変わらずだな」
魁は咳払いした。
夕日が住宅の屋根へ沈み始める。
未来の魁が、膝掛けの下から剪定鋏を出した。
「一枝、切ってくれ」
「公園の木だぞ」
「元は俺の木だ」
「今も俺だろ」
二人で笑った。
魁は花のついた細い枝を切り、未来の自分へ渡した。指が触れた瞬間、影が長く伸びた。
現在の畑へ戻ると、手には剪定鋏だけが残っていた。
翌日、魁は売買契約書に条件を一行加えた。
《中央の梅「春告」一本を保存し、誰でも入れる場所とすること》
三百本を残す力はない。
一本なら、未来の自分と一緒に守れる気がした。