最前列の二枚
小劇場「鈴灯座」の最前列中央、A七番が二重予約になっていた。
一枚は私、狛江柚葉。もう一枚は、元女優の宇賀真澄さん。受付の弓削さんは、空いている後方席を提案したが、真澄さんは足が悪く、私は舞台の細かな表情を見るため最前列を選んでいた。
今夜の脚本を書いたのは、大学時代の後輩、千早部壱花。私は演劇をやめて会社員になり、彼女の最初の作品に厳しい感想を送ったまま疎遠になった。予約に関われたのは、弓削さん、壱花、真澄さんの三人。
席を確認すると、手掛かりは三つだった。
A七番には、通常より厚い座布団が二枚重ねてある。真澄さんの紙券には「途中で立ってもよい」と私の筆跡で書かれた昔の稽古メモ。そしてプログラムの演出助手欄に、私が大学で使っていたあだ名が印刷されていた。
「壱花が、二枚とも用意したんですね」
舞台袖から、彼女が顔を出した。
真澄さんは、大学時代に私たちを指導した先生だった。病気で劇場へ来られなくなり、私が代わりに稽古メモを書いていた。けれど卒業公演で私は台詞を飛ばし、真澄さんに叱られたと思い込んで、その後一度も会わなかった。
本当はあの日、真澄さんが書いた「途中で止まってもよい」という言葉を、私が自分の字で台本に写していた。演技は失敗しても続けられる、と励ますためのメモだった。
壱花は古い台本を見つけ、私と真澄さんを同じ席へ招いた。演出助手に私のあだ名を載せたのは、私の赤字が今作の直しに役立ったから。「勝手に名前を借りた謝罪も、会えば言えると思った」という。
「後ろの席へ移るよ」と私が言うと、真澄さんが座布団を一枚床へ置いた。
「若い頃は、舞台袖の床で何時間も見たでしょう」
二人でA七番の前に座った。開演ベルが鳴る直前、壱花が小さな紙袋を差し入れた。中には、大学前の店でよく買った蜂蜜飴が二つ。
真澄さんが一つを私の手に落とす。
「台詞を忘れたら、間を味わいなさい」
私は飴を舌に乗せた。
「今度は、最後まで見ます」