最後の卵

野々宮嶺の家では、大晦日に冷蔵庫を空にする。ただし卵だけは、零個か二個以上にしなければならない。二十三歳で一人暮らしを始めた嶺は、母から毎年同じ注意を受けていた。

家族レシピの共有アプリには、由来の代わりに一行だけある。

《大晦日の夜、冷蔵庫に卵を一つだけ残してはいけない》

祖母は、一つだけの卵は食べ物ではなく「次の家族」と数えられると言った。野々宮家は代々一人っ子だが、戸籍の余白には出生届のない次男や次女の名が鉛筆で書かれている。

祖母の家計簿では、卵を一つ残した翌年だけ育児費が二人分ついていた。家族写真には子どもが一人しかいないのに、影は必ず二人分ある。二人目の成長記録は冷蔵庫の温度欄へ書かれ、十八歳になる年に《外へ出す》と終わっていた。

年末、嶺は帰省直前に卵が一個残っていることに気づいた。食べる時間はなく、捨てるのも惜しい。翌日に戻れば問題ないと考え、そのまま冷蔵庫を閉めた。禁忌を破ったのは、その一度だけだった。

実家へ向かう電車の中で、スマート冷蔵庫から通知が来た。

《庫内の家族構成が変わりました:1名→2名》

続いて、いつもは野菜の鮮度を示す画面に《成長率三%》《殻の持主:長男》という項目が現れた。冷蔵庫の電力使用量も、人一人が眠るときの発熱量だけ増えていた。

カメラ映像では、卵が棚の中央へ移動していた。殻に細い線が走り、内側から指でなぞるように「嶺」と書かれている。温度は四度なのに、庫内マイクはゆっくりした心音を拾った。

母へ見せると、彼女は顔色を変え、「名前をつけられた方が殻になる」と言った。帰宅して冷蔵庫を開けても、卵は空だった。割れた殻もない。ただ、床に小さな濡れた足跡が二本ずつ続き、寝室へ向かっていた。

翌朝、健康管理アプリが新しいプロフィールを追加した。

《野々宮嶺 長男》

《野々宮嶺 次男》

二人のDNA情報は完全一致。年齢だけ、次男は一日だった。

冷蔵庫の音声案内が、牛乳の賞味期限を告げるのと同じ声で続けた。

『次男が冷蔵室から退出しました』

背後の寝室から、嶺自身の声で「お兄ちゃん」と呼ばれた。