月を買う券売機

最終電車を逃した朝比奈央は、無人駅の券売機で「昨日行き」の切符を買った。

 運賃は硬貨ではなく、記憶一分。投入口へ指を触れると、月形の銀貨が一枚出る。最終電車に乗れば五分前へ戻り、また同じ券売機の前に立つ。

「残高が不足しています」

 機械の声。頭上には欠けた月。ベンチには、白い帽子の老人が座っている。

 央の目的は元の時間へ帰ることだった。駅前で拾った古い定期券を試したせいで、十二年前へ滑り込んだ。明日の仕事も、家賃の引き落としも、飼っている金魚も現在に残している。

 一周目、月形銀貨を一枚入れた。五分だけ進み、元の場所へ戻った。

 二周目は十枚。幼稚園の運動会を忘れたが、十年先へは届かなかった。

 三周目、老人が言った。

「帰るには、いちばん重い記憶を運賃にするんだ」

 央のいちばん重い記憶は、十二年前のこの駅だった。兄と喧嘩し、終電に一人で乗った夜。兄は追いかけて踏切で事故に遭い、片脚を失った。央はその罪悪感から町を出た。

 券売機の表示が変わる。

〈現在行き 一名分。支払:事故の記憶〉

 忘れれば帰れる。兄を傷つけたことも、謝れなかった理由も消える。現在で会っても、なぜ車椅子なのか尋ねてしまうだろう。

 老人が白い帽子を取った。年老いた兄の顔だった。

「残高が不足しています」

「兄さんは、ここで何してる」

「おまえが帰るたび、俺は見送る。おまえが忘れるたび、また説明する」

 何度も同じ選択をしていたのだ。央は現在へ戻るたび事故を忘れ、定期券を見つけ、罪を思い出すため十二年前へ来る。二人は最終電車の両側で同じ夜を摩耗させていた。

 券売機にはもう一つ、〈駅を廃止する〉という商品があった。価格は、購入者の名前。買えば時刻の出入口は閉じるが、どの時代の記録にも央は残らない。

「帰らないのか」と兄が聞いた。

 央は月形銀貨へ、自分の名前を指でなぞった。

「もう、見送らせない」

 銀貨を投入すると、券売機が最後に一度だけ鳴った。駅名標から文字が消え、線路の先で最終電車が光の粒になった。

 朝が来た。老人の前にいる若者を、兄は知らない目で見た。

「どちらさまですか」

 央は答えようとしたが、自分の名が口に出なかった。

 無人駅を出る。現在へ帰る道も、十二年前に留まる住所もない。空には、運賃にできなかった細い月だけが残っていた。