朝のエレベーターを見送る
夕映は、いつも時間に追われていた。遅刻したことはほとんどない。それでも駅では走り、会社では閉まりかけた扉へ身体を滑り込ませる。一本見送るだけで、自分だけが取り残される気がした。早く着いた朝も、コンビニのコーヒーを立ったまま飲む。余った時間を休むことに使う発想がなく、先の仕事を探して埋めた。
以前、閉まりかけた扉に鞄を挟み、中身を床へ散らしたことがある。その日も拾い終えると、次の電車へ走った。
マンションの隣室には、スロバキアから来たチェロ奏者のパヴェルが住んでいる。大きなケースを持つ彼は、混んだエレベーターが来るたび、何も言わず次を待った。
ある朝、夕映は腕を伸ばして扉を止めた。中は満員だったが、肩を細くすれば入れる。後ろにいたパヴェルは動かない。
「乗らないんですか」
「この箱には、今の私の幅がありません」
彼は閉じる扉を見送り、夕映に聞いた。
「何秒なら、あなたの一日を壊せますか?」
「一本分でも困ります」
「では明日、一台だけ見送る。壊れるか見てください」
到着した次の箱には二人だけで乗った。パヴェルは答えを教えず、一階でケースを引いていった。
翌朝、夕映が廊下へ出ると、ちょうどエレベーターが来た。中には通勤客が六人、宅配の台車が一台。まだ入れる。奥の男性が「どうぞ」と身体をずらした。
夕映は片足を出した。駅までの信号、電車の時刻、始業までの余裕が頭に並ぶ。乗らなければ三十八秒遅くなる。
昨日の質問を思い出す。三十八秒で壊れる一日なら、毎朝すでにひびだらけだった。
「次にします」
夕映は一歩下がった。扉が閉じ、表示が一階へ降りていく。廊下には冷蔵庫のような機械音だけが残った。誰もいない床に、自分の靴音が二つきちんと返ってきた。
いつもなら連打する呼びボタンへ、指を伸ばさない。窓から朝日が差し、片方だけ折れていたシャツの襟に気づく。夕映は急がず折り目を直した。
やがて表示が上向きに変わる。彼女は誰もいない扉の前で、初めて足を揃えて次の箱を待った。