本名記帳
旧獅子口トンネルの入口には、誰が設置したか分からないQRコードがある。読み取ると電子芳名帳が開き、最初に一文だけ表示される。
《記帳欄に本名を入力してはいけない》
銭谷匡は二十九歳の民俗学系ライターだった。匿名の記録ばかりでは資料価値がないと考え、検証記事の証拠として、自分の本名を一度だけ入力した。
氏名:銭谷匡
入場時刻:16:08
退出予定:16:20
送信すると、画面に《受理しました。お名前は出口で返却します》と出た。
トンネル内には落書きも供物もなく、十二分で反対側へ抜けた。だが退出ボタンを押すと、エラーが出た。
《その名前はすでに退出しています》
匡は偽サイトだと思い、ブラウザを閉じた。
帰宅後、さまざまなサービスで本人情報がおかしくなった。銀行アプリは「名義人不在」、宅配アプリは「受取人退出済み」、会社の勤怠は「退職処理済み」。顔認証は通るのに、名前だけが使えない。
役所のオンライン窓口で住民票を確認すると、住所変更が受理されていた。
旧住所:市内一丁目五番
新住所:旧獅子口トンネル 退出側
異動理由:氏名のみ転出
問い合わせチャットへ事情を書くと、自動応答が返った。
《身体の所在地と氏名の所在地が一致していません》
《本人確認のため、氏名をお迎えに送ります》
夜十一時、玄関のスマートロックから通知が届いた。
《銭谷匡さんが解錠しました》
匡は室内にいた。廊下のカメラには誰も映らない。ただ、床に濡れた靴跡が一足分、玄関まで続いている。
スマートフォンの連絡先が一件更新された。自分のカードから名前が消え、電話番号だけになる。代わりに、新しい連絡先が追加された。
名前:銭谷匡
住所:旧獅子口トンネル
状態:帰宅中
画面下の電子芳名帳が勝手に開いた。
《お名前を返却しました》
《現在お持ちの身体を、出口で返却してください》
玄関の外から、匡の声が本人確認用の決まり文句を読み上げた。
「銭谷匡です。受け取りに来ました」
スマートロックは、その声を正規利用者として認証した。