来てもいいと言った母

母からの電話は、四十七日ぶりだった。

侑里は着信音が止まる直前に出た。

「もしもし」

『今、駅にいるの』

胸が固くなる。母は以前もそう言って、十分後には侑里の玄関を開けた。合鍵を返したあとでさえ、マンションの下から何度も呼び出した。

「帰って」

『まだ何も言ってないでしょう』

「家には入れない」

『……分かってる』

母の声が、珍しく小さかった。駅のアナウンスが遠くで重なる。

『渡したいものがあるの。冬物のコート』

「いらない」

『そう言うと思った』

「じゃあ持ってこないで」

『持ってきてないわ』

侑里は黙った。母も黙った。二人の間に、電車がホームへ入る音だけが長く流れた。

『今度の日曜、そっちへ……』

母はそこで言葉を切った。いつもなら「行くから」と続けるところだった。

『行っても、いい?』

質問の形が、母の口の中で不慣れに転がった。侑里はすぐに「いいよ」と言いそうになった。母が変わろうとした一言へ、ご褒美を渡すように。

けれど、日曜は一人で映画を見る予定だった。ずっと楽しみにしていた。

「日曜はだめ」

『そう』

「再来週の土曜なら、駅前で一時間」

『家じゃなくて?』

「家じゃなくて」

『コートも持っていかないほうがいい?』

「写真を送って。欲しかったら言う」

『分かりました』

母が敬語を使ったので、侑里は少し笑った。からかったら二度と使わない気がして、声には出さなかった。

『じゃあ、再来週』

「時間はあとで送る」

『侑里』

「なに」

『電話、出てくれてありがとう』

感謝を言われることにも慣れていなかった。母の「ありがとう」は、たいてい「当然してくれるでしょう」の前に置かれていた。今日は後ろに何も続かなかった。

「うん。今日はもう切るね」

『はい』

通話が終わる。

侑里はカレンダーを開き、再来週の土曜に一時間だけ枠を作った。題名を〈母〉と入力しかけ、母の名前に直す。会うのは役割ではなく、一人の人としてにしたかった。

それでも場所は駅前。時間は一時間。家の住所も、新しい合鍵も渡さない。

母が一度質問できたからといって、過去が消えるわけではなかった。侑里が一度断ったからといって、関係が終わるわけでもない。

日曜の映画の予約画面を開く。予定どおり、一席だけ取った。

確認メールが届いたあと、母から短いメッセージが来た。

〈再来週、行ってもいい時間を教えてください〉

侑里は〈こちらから連絡します〉と返した。

今度は、その文のまま待ってもらうことにした。