栗鼠の忘れ物と胡桃パン

 山の麓のパン屋「巣箱」は、窓辺に胡桃を置く。

 朝になると野生の栗鼠が来て、一つずつ頬袋へ詰めていく。全部食べるわけではなく、庭のあちこちへ埋め、どこに隠したか忘れるらしい。

 鳥越亜門は、大学の合格発表を見たあと、その店まで歩いてきた。

 家にはまだ帰っていない。父も母も仕事を休み、結果を待っている。模試では安全圏だった。塾の先生も大丈夫だと言った。だから不合格の三文字が、自分だけでなく皆の期待まで壊したように見えた。

「焼きたて、食べる?」

 店主の恵麻が胡桃パンを一つ割った。茶色い生地の中から、炒った胡桃がごろごろ現れる。

「お金、あまりないです」

「半分は試食。もう半分は、顔が青い人割引」

 亜門は窓際へ座った。パンの外側は固く、中はもっちり温かい。胡桃を噛むたび、乾いた香ばしさと少しの渋みが広がった。蜂蜜を塗ると、その渋みまで味になった。

 外では栗鼠が土を掘っている。昨日埋めた場所を探しているのか、新しく隠しているのか分からない。

「あれ、忘れるんですよね」

「半分くらいは」

「無駄じゃないですか」

「忘れた胡桃から、木が生えることもあるよ」

 亜門は笑えなかった。

「勉強したのに、落ちました」

「それは悔しいね」

 励ましではなく、先に悔しいと言われたことで、喉の奥が熱くなった。

「全部無駄だった気がします」

「答案には使えなかった知識も、頭のどこかには埋まってるでしょう」

「木になりますか」

「ならないかもしれない。でも、今日の君が昨日より空っぽってことはないよ」

 亜門は残りのパンを食べた。胡桃の一片が歯の間に挟まり、それを舌で取りながら、家のことを考えた。父はたぶん黙る。母はたぶん「お腹すいたでしょう」と言う。そのどちらも怖く、でも一人でここにいるよりはましだった。

 携帯を開く。

〈だめだった。今から帰る。何か食べたい〉

 数秒後、母から返事が来た。

〈カレー温め直す。パンも買ってきて〉

 亜門は胡桃パンを三つ買った。店を出ると、栗鼠が木の根元から顔を出し、口の周りに土をつけている。

 鞄の紙袋はまだ温かく、歩くたびに胡桃と小麦の香りが上がった。不合格は消えなかったが、帰り道には食卓の明かりが一つ、確かに待っていた。