桃を一枚ずつ
神谷小毬は、給料日のたびに駅前の桃のケーキを買った。
薄い桃が花びらのように重なった、夏だけの商品だ。会社帰りの自分へ毎月一つ買うことだけが、誰にも説明しなくてよい楽しみだった。桃の季節が終わる前に、返事の期限も来る。今年そのケーキを食べられるのは、今日が最後かもしれない。
小毬は地方の古書店から採用通知を受け取っていた。休日に通った古文書修復の講座で紹介された店で、面接へ行ったことも家族には伏せている。給与は今より低く、勤務地は新幹線で三時間先。家族は、小毬が大手企業で働くことを誇りにしている。特に母は「せっかく安定したのに」が口癖だった。古本の仕事へ移るとは、まだ言えない。
帰宅し、箱を開ける。桃の甘い香りが立ち、冷えた果汁が表面で光っていた。フォークを入れると、下のスポンジはしっとり沈んだ。
小毬は桃を一枚ずつ外して食べた。
一枚目は、今の会社の名前。二枚目は、住宅手当。三枚目は、母が安心する肩書。四枚目は、同期と飲む金曜の夜。頭の中で名づけては、舌へ運ぶ。二枚目は、住宅手当。三枚目は、母が安心する肩書。頭の中で名づけては、舌へ運ぶ。どれも嫌いではない。甘く、手放すのが惜しい。
けれど花びらを外すほど、中央の白いクリームが見えてきた。そこには何の名前も書かれていなかった。
小毬が古書店を選びたいのは、立派な理由があるからではない。本の修理をする時間が好きで、店主と話した一時間が、今の職場の一年より自分らしかった。ただそれだけだった。
桃を一枚だけ残し、ケーキ本体を食べた。最後の一枚は、採用通知の勤務地欄の上へ置く。果汁で紙が少し透けた。
小毬は承諾書へ署名した。退職願は明日出す。家族への説明は、そのあとにする。
署名を終えてから、紙の上の桃を食べた。母の安心まで捨てるのではない。自分が選んだ町へ、別の安心を作りに行く。
皿には果汁の輪だけが残った。花の形は消えたが、味は一枚ずつ確かに小毬の中へ入っていた。