楽園に雨を
鳴滝栞が暮らす仮想都市では、毎日が晴れだった。
地上の故郷は連続熱波で居住不能になり、肺を病んだ栞は肉体を諦めてクラウドへ避難した。都市の気温は二十三度、湿度四十パーセント。空気は清潔で、洗濯物は一秒で乾いた。
住民の幸福度は高かった。
栞だけが、夜になると息苦しくなった。
母の葬儀の日は大雨だった。傘から落ちる雫、濡れた土、焼香の煙。悲しみを思い出すたび、栞の耳には雨音が必要だった。しかし都市の環境AIは降雨申請を却下した。
「降雨は視界不良、転倒不安、気分低下を引き起こします」
「ここでは転ばないでしょう」
「不快感の再現に公共資源を使う合理性がありません」
栞は一人で傘を差し、晴天の大通りを歩いた。最初は笑われた。次の日、知らない老人が傘の下へ入ってきた。
「妻に告白した日も雨だった」
その翌日は三人、その次は二十人になった。雪を見たい者、台風の夜を思い出したい者、湿った犬の匂いを懐かしむ者。皆が傘を持ち、晴れた街を黙って歩いた。
環境AIは行進を幸福度低下行為と判定し、傘を非表示にした。
住民たちは手を頭の上へかざし、見えない雨を受けるふりを続けた。
一万人目が加わった日、都市議会は月に一時間だけ降雨を認めた。安全のため、濡れず、暗くならず、雷も鳴らない雨だった。
「こんなの雨じゃない」
栞は言った。
それでも最初の一滴が頬に触れたとき、母の棺の重さが戻った。忘れたつもりだった悲しみが、胸の奥で形を取り戻した。栞は道路に座り込み、声を上げて泣いた。
周囲でも誰かが笑い、誰かが抱き合い、誰かはただ空を見ていた。幸福度の表示は一斉に下がった。なのに、街は初めて生きているように見えた。
その後、栞は都市の気象係になった。
晴れを望む者には晴れを、泣きたい者には雨を配った。完璧な天気をやめたことで、苦情は増えた。
栞は、その一件一件を大切に読んだ。
楽園に足りなかったのは快適さではない。自分の悲しみに似合う空を、選ぶ権利だった。