欠けた羅針盤
暗礁海峡で、港水先人イライアス・クロウは羅針盤を膝に置いた。
硝子の縁が一か所欠けている。欠け目を北西へ合わせれば、針が狂っていても王港への深水路が読める。二十年、彼だけが使ってきた道具だった。
植民総督ベラミーは船尾で囁いた。
「敵艦隊を白岩へ導け。先頭艦が座礁したら灯を消し、泳いで戻れ」
「俺の船は」
「捨てろ」
「俺自身も、捨てる勘定ですか」
総督は答えなかった。答えないことが答えだった。
沖には共和国の帆船十二隻が待つ。イライアスは降伏を装った案内人として、敵の旗艦へ乗り移る手はずになっている。偽の航路を教え、艦隊を暗礁へ載せる。その功で絞首刑を免れるはずだった。
彼が絞首刑を言い渡された罪は密輸である。総督の砂糖を、総督の帳簿どおりに運ばなかったからだ。実際には総督の愛人へ送る宝石を横流しした。忠義も裏切りも、出発点はたいてい金だった。
敵旗艦から小艇が来る。
共和国提督の副官が乗り込み、短銃をイライアスへ向けた。
「安全な水路を示せ。嘘なら最初に吊るす」
「本当でも、最後には吊るすんだろう」
「港を取るまで生かす」
ベラミーより一日長い約束だ。十分だった。
イライアスは羅針盤を見せた。
「針は東を指しているが、三度狂っている。欠け目を北西へ向け、星ではなく潮音を聞け」
副官が眉をひそめる。
「白岩はどちらだ」
イライアスは総督に教えられた偽航路を指した。浅瀬へ続く死の道だ。
「こちらだ。だから反対へ進め」
副官は笑わない。共和国側とは昨日、牢番を買収して話をつけてある。深水路を通す代わりに、港の砲台を市街へ撃たせない。さらに総督の私金庫の一割。正義ではなく、具体的な額だった。
総督が闇の岸から覆い灯を一度振った。早く罠へ入れろという合図だ。
イライアスは羅針盤の欠け目を北西へ合わせた。針は嘘をついたまま、盤だけが正しい道を示す。
「帆を半分。舵、右へ七度」
敵旗艦が動く。後続の十一隻も、黒い影となって続いた。
白岩は左舷を過ぎた。総督の灯が激しく揺れる。
やがて艦隊は一隻も座礁せず王港へ入り、砲門を総督府へ向けた。旗艦の主檣に共和国旗が上がった。