歌えない証人

路上歌手・鳴滝蛍が高架下で殺されて一年。担当刑事の室生暁へ、彼女のアカウントから未発表曲の通知が届いた。

予約投稿のタイトルは『OPEN』。

同じ通知は、参考人の八雲路誠にも送られていた。

誠は事件当夜、高架下を通っていないと証言した。近くのバーを経営する男で、蛍が店前で歌うことを何度も追い払っていたが、「名前すら知らない」と言い張った。監視カメラは豪雨で映像が乱れ、決め手がなかった。蛍とも面識がないという。室生は取調室の机に端末を置き、二人で再生を始めた。

再生画面には、歌詞の代わりに口の形だけが白い線で描かれる。開く、閉じる、息を吸う。

イントロには伴奏がない。唇を開く音、舌を離す音、短い吸気。蛍が発声前に必ずする準備だった。

「口を開けて」

彼女の声が、ほとんど息だけで鳴る。

蛍は吃音があり、話す時は言葉が詰まったが、歌う時だけ滑らかだった。だから録音前には、自分へ言い聞かせるように同じ指示を繰り返した。

Aメロは単純な四音の旋律を繰り返す。蛍はその夜、初めて作った曲を路上で試していたらしい。クラウドに残ったのは、ポケットの端末が自動録音した一回だけ。公開も共有もされていない。

「口を開けて。続きをちょうだい」

サビは高い音へ上がり、最後の一音を残して不自然に切れた。普通なら主音へ戻る場所だが、蛍はわざと半音下へ外す癖があった。録音が止まった場所が、襲われた瞬間だ。

誠は「くだらない」と言いながら、膝で正確なテンポを取っていた。初めて聴く者なら迷う変拍子でも、一度覚えた身体は先を待っている。

四拍の空白。

誠の指が机を叩く。口元がわずかに動き、彼は欠けた一音を正しい高さで鼻歌にした。

室生は停止ボタンを押した。

「今の続きを、どこで覚えた?」

誠は顔を上げる。曲は最後まで完成していない。欠けた音を知るのは、蛍が殺される直前、一度だけ歌ったその場にいた人間だけだ。

再生画面には、蛍が事前に入れた字幕が現れた。

〈歌えない証人の代わりに、知っている人が歌う〉

「口を開けて」

最初は歌うための発声指示だった。

最後には、黙秘を選んだ男自身の口から、現場にいた証拠を引き出す一音になった。